エゴについて、大まかな特徴です。
・エゴは三次元世界の意識
・その意識は思い込みで動いている
・完璧ではないため、エゴは不完全である
意識・無意識にかかわらず、行動には必ず思い(思い込み)が現れており、思いが先にある。
なにか行動するときには、必ず理由がある、ということ。
思いが運命をつくる(因果応報)ので、運命をよくするには、方向性に合わない誤った思い込みを変えなくてはいけない。
その思い込みを変えることで、いまをよりよく生きられるようになっていく。
これから、何回かにわけて書いていきます。
写真は、息子作「こうもり」です。
折り紙の本などを参考にせず、自分で考えたそうです。
胴体をもって上下動させると、本物のこうもりの羽の動きによく似ているようにも見えました。
自分で考えて楽しみながら作っているようで、自分の子供のころではそこまでやることもなかったため、見ていて驚かされたり、感心することがあり、楽しいです。
思い込みを変えるきっかけは、問題を感じたときや気づいたとき。
過去に歪んだことをやった(誤った思い込みで行動した)ので、歪んだものが返ってきた(カルマ)、と考えられると、思い込みをよくしようとしたり、自分のやったことの結果がこれ、と考えられるようになる。
歪みに気づくことで、歪みを正すことができる。
気づいたときに、取り組むことができる。
エゴは、無意識にエネルギーを保つことを優先する。
自分が変わるためには頭や身体を使うため、エネルギーを使うことになり、基本的にエゴはそれらを好まない。
できるだけエネルギーを使わない方向で選択しようとするため、自分を変えようという選択肢をできるだけ選ばないようにする。
しかし、エネルギーが多い方が自分にとって都合がいいこともわかっているので、自分はエネルギーを浪費せず、しかしエネルギーがたまる方法があれば、それを選択しようとする。
例えば、自分はなにもしないで、誰かに何とかしてもらう、など。
幼いエゴは、見えている範囲でしか考えないため、目先の損得で動く。
目先の損得を優先した結果、「誰かが何とかしれくれる」という選択をすれば、「自分を良くしていこう」「成長しよう」という選択肢の優先順位は、下がることになる。
※言葉が足りないところもあると思いますが、いまはあまり長い文章にしてわかりづらくしたくないため、必要があれば後日補足していこうと思います。
「否定」は、ありのまま見ているのではなく、自分の価値観でものを見ているということ。
自分の価値観でみることを、思い込みといいます。
思い込みで見ているということは、なにか都合のいいように、損得でものを見ているということ。
ものごとを都合で見なくなれば、「ありのまま」見られるようになっていきます。
ものごとがわかるようになると、意識的に取り組めた方が結果を出しやすくなる。
幼いエゴのままでは、意識的に取り組めないことが大半であり、「無意識」に任せていても現状維持を目的としたパターンにはまり込むだけなので、結果につながる取り組みでない限り、ずっと結果は出しづらい。
しかし、エゴの私たちは、結果をだせる取り組みはしていないにも関わらず、自分に都合よくエネルギーが勝手に増えたり、たまるようなことを期待する。
棚から牡丹餅をことあるごとに期待し、期待している間は自分が成長するような取り組みが、できないままでいる。
幼いエゴの判断で、現状維持のために損得勘定を優先し続けると、歪みが生じるし、成長しないため、停滞する。
正しい方向性に向けて損得勘定を働かせれば、成長に得なことを考えるので、歪みは出にくく、成長も効率的になる。
停滞から「抜け出す」ためには、そこから「抜け出せる」取り組みをしなくてはいけない。
いまよりも本当によくしようと思ったら、自分よりものごとがわかっている存在に聞けばいい。
それが上位意識。
上位意識があると信じ、その存在との繋がりを育み、まずは自分でできることをやりながら、その存在にフォローしてもらい、問題をクリアする取り組みをしていく。
しかし、取り組みを変えるにしても、方向性が出ていないと、なにをどうすればいいのかがはっきりしない。
「成長する」「進化する」「よりよく生きる」「覚醒する」「実存を見る」「幸せになる」、方向性がそれらに向いているのであれば、真剣に方向性にあった具体的な取り組みをまず考える。
そして、無意識の思い込みで動いている普段の行動パターンを見直し、「成長する取り組み」を意識することで、いつものやり方よりも意識できたものの優先順位をあげ、それを行動に移していくこと。
このように、意識的に無意識の取り組みを変えていくこと。
それを、エゴのチェックとコントロールとよんでいます。
エゴをチェックすることについて。
気を付けたいのは、エゴは無くならないということ。
成長しようが覚醒しようが、この世界で生きている限りは、どこかでエゴが顔を出すことがあるので、それが歪みの生じないエゴの働きかどうかをチェックする必要がある。
わかったつもりで油断していたら、気が付いた時にはエゴの手のひらで転がされていた、なんてことばかりを私たちは繰り返している。
エゴは巧妙に入り込んでくるので、こういうことを意識していなければ、通常はまったく気づくことがない。
意識していても、なかなか気づけないもの。
実体験でわかりやすかったものについて。
ブログの文章を書いていたときの事、ある程度まとめられたと思って掲載しようとした瞬間、ある程度できあがっていることで気が抜けていたところに、「あ、このことも書き足しておこう」と浮かんだ内容があった。
数行だったが、なにげなく書かれている文章の内容は、エゴの歪みを正しいことと肯定するものだった。
間違ったことを正しい、と書いていたにもかかわらず、自分では気づくことがなかった。
冷静に見直せばわかることでも、思いこみが働くと、つい流してしまう。
この時は、ひろかねさんが指摘してくださり、すぐに修正をかけられたものの、自己責任ということから考えれば、通常は誰かに指摘されることの方が少ないこと。
自分で気づけるようになっていく必要がある。
そのため、エゴのチェックを習慣化して、身につけることが大事。
方向性や日々の取り組みによって、上位意識からのインスピレーションが働くようにもなるので、こうしたことを踏まえながら、目の前の取り組み一つ一つを大事にすること。
理解が中途半端だと、わかった気になったり、できているつもりになったり、自分が該当しない高い段階にあるような華やかな勘違いをする。
ついおろそかにしてしまう、というのも、油断したところにエゴがそっと顔を出し、主導権を奪われているから。
自分のことは、なかなか気づけない。
自立の大切さ、自分で判断することの重要性など、こんこんと話されたあとで、
「よくわかりました。これからもついていきます!」
なんてことを、エゴは平気で言えてしまう。
それに気づいて、ハッとする。
エゴを指摘されて気づくことの例として、
「大事とわかっているつもりで、実際はそれができていない」
ということがある。
大事だと思うならすでに行動に移しているはずが、実際は行動にまったく移していなかったり、言い訳して違うことを優先していたりする。
自由が大事といっておきながら、自分の思いこみで人に無理強いしてしまうことをやっていたり、同情についてわかった気になっていたら、ちょっと応用を利かせればわかることに気づけず、エゴの都合を優先していたりする。
家族を大事にと思いながら、実際は帰ってくるなり、自分を最優先して愚痴しか言わない、ということもある。
エゴに向き合うようになると、こうしたことに事あるごとに何度も出くわし、いろいろなケースを繰り返し体験することになる。
気づくことがあるたびに、ショックを受けることもあるが、向き合う以前はもっとひどかったはず。
やってみてわかるのは、思い込みはなかなか簡単には取れないということ。
思いこみはある意味「癖」なので、新たないい癖がつくように、辛抱つよく、何度も、何度も、確認していくことです。
写真は、息子作「あさがお と ひまわり」です。
自分なりにちょっと工夫して描いたそうです。
思い込みは、ひとつクリアしたと思っても、また違う形で顔を出す。
実体験として、特別視は今だに残っていて顔をだす。
一回クリアしたら、もう大丈夫、ということはない。
人に対しての特別視をクリアしたと思ったら、自分への特別視が残っていた。
自分に対しての特別視に気づけたと思ったら、神に対しての特別視が隠れていた。
神や上位意識への特別視を意識できるようになったら、自分の甘えに気づいた、等々。
気づくたびに発見があるが、自分の都合や甘えに依存など、いったいどれだけ歪めてものをみているのだろうか、とうんざりする。
うんざりしても、またこれからもどこかで顔を出す。
「わかっていないことが自覚できていない」ことは常にあるので、こうしたことに気づけるといい。
気づくことで、取り組みがよくなっていく。
取り組んだ分だけ、自分は成長するし、人のエゴもわかるようになる。
一度に完璧にできればいいが、エゴは不完全なので、こうした繰り返しで、自分の不完全さを理解していくことになる。
自分の不完全さがわかると、他者に対しても理解が進み否定が減る。
お互い様、といえるようになる。
対等公平の理解を深め、全肯定への理解がすすむ。
全肯定のこの宇宙は、様々な可能性がある。
なにを選択するかにより、私たちは上を目指していくことができる一方、誤った選択をすれば、下に落ちていく可能性も常にある。
しかし、どちらも可能性。
いまこの時にできることは、目の前のこと。
日々の取り組みとしてできる限り思い込みを減らし、自分に都合よくものを考えないよう、エゴの整理をしておくといい。
転生繰り返して「実存を見る」という最終ゴールに到達するまでは、とにかく折に触れて、エゴのチェックとコントロールを意識的に取り組むことです。
ようは、「ずっとやる」、ということです。
自他ともにエゴのチェックをする際にまず気を付けることは、おかしなところ、矛盾していること、間違っている点、それらを見つけること。
また、できていることや結果がでた取り組み内容が正しいことなど、それらを素直に認められたなら自信になり、自分の成長や幸せに役立てられる。
言葉は不完全なので、使い手や受け取り手によってや、使われる時代や状況や場所によっても、その意味が少しずつ変わってしまうもの。
間違ってはいないが、言葉が足りない。
理解としてあってはいるが、まだ途中段階。
そういうものもある。
それらを間違っている、とすることがないように気を付ける。
どんな存在も不完全。
どこか歪みが残っていたり、足りないところがあったりする。
その歪みがあるからといって、否定的に見る必要はない。
エゴの癖みたいなものだが、理想主義的な性質が強い人は、ちょっとした歪みがあるだけで、その相手も丸々信じられなくなることもある。
しかし、自分の都合にあうことだけや、良い面だけしか見ないうちは片手落ち。
より正しい判断は、全体を見ることでできるようになる。
変わらない取り組み姿勢としては、どんな存在に対しても鵜呑みにしないこと。
一度は自分で考えることを、習慣にしておくといい。
誰が言っているかではなく、何を言っているか、で考えること。
人を信じて、まるごと鵜呑みにすると、歪んだものまで受け入れてしまう。
歪んだものまで取り入れていたら、歪んだことをやってしまう。
それではなかなか前に進まないうえ、下手をすれば大きく後退しかねない。
より歪みの少ないものを取り入れることで、よりよく生きられるようになる。
だから、判断を「誰」に委ねるのではなく、「なにを」に目を向けて自分で判断する。
自分のために、自分の頭を使って考える。
他の誰かではなく自分を信じることで、自分を生きられるようになる。
信じられるような自分であるために、日々の取り組みをする。
無意識の働きであるエゴをしつけて、チェックとコントロールが習慣化されれば、意識も無意識も自分をよくするために働かせられるため、取り組みそのものも効率的になり、さらに生きやすくなる。
写真は息子作「りゅう」第二弾です。
上段は、見本にした手ぬぐいです。