BBSのひろかねさんのやりとりを見て、改めて感じることがありました。
初回の2016.11.8.の書き込みに対し、2016.11.10.の書き込みで、
『誰が真実を話しているか区別できていない。』
と書かれています。
一回目のメールの内容だけで、私たちは真実に果たして気づけるでしょうか。
これは当たり前のことですが、不意に訪れる判断の機会、それとわかっていてその時を迎えられることはまずありません。
それまでに生きることに真剣であることで、そうした判断が可能となっていくのだと感じています。
いまでこそ知識があるのでわかることもありますが、私も自分に思い込みがまだあることを感じていますし、真剣に生きることを目指して取り組んでいる段階ですので、自分の状態をエゴなりに自覚して考えると、エゴだけで考えていたら明確な判断がつかないと思います。
そうした場合、真剣に考えるだけでなく、上位意識とのつながりを通して考えるようにしています。
ひろかねさんから初めてお電話をいただいた直後、「この人に聞きなさい」という上位意識の働きかけがあって、ひろかねさんがどんな方かもわからないまま、大事なことを話してくださる方なのだろうと信じて、お話を聞き続けることができました。
思い込みだけのエゴの判断に従っていたら、こうしたブログを書くことはなかったのではないでしょうか。
この時、上位意識を使わないと正しい判断はできないということを、身をもって体験したと思っています。
下位の意識では、上位の意識がなにを考えているか、よくわかりません。
その時判断できなくても、自分の成長と共に理解できることもあるため、最初にどこまで大事なことや上位の意識の存在に気づけるか。
そうした気づきは、日々の地道な取り組みで磨かれる感受性によるものだと思います。
いまの自分の幸せのために、目の前のことひとつひとつ地道に取り組み続けることだと思っています。
こうしてブログを書くこともそうした取り組みであり、私が上位意識とのつながりをよりしっかりさせるために行っている、という面があります。
ですので、自分の幸せのための取り組みです。
ありのままが見えていないということは、歪めて見ているということです。
(エゴの私たちの状態です。)
ありのままを否定して、間違ったものの見方が正しいと信じている状態、それがまちがった思いこみです。
そこに気づくことで、自分をよりよくしていくことができます。
間違った物の見方を正し、否定を減らすことで、少しずつありのままに捉えられるようになっていき、全肯定に近づきます。
間違った思い込みをより正しく変えない限り、ありのままが見れるようにはなっていきません。
より「ありのまま」がわかるようになると、言葉はシンプルになり、短い言葉で余計な説明も必要なく、相手に真意が伝わるようになっていくようです。
ひろかねさんと話していて、感じることです。
きちんと話をされたとしても、受けての思い込みもあるので、すべてを正しく理解はできませんが、そうした言葉には力があるので、なんとなくでも良い悪いがわかるのではないでしょうか。
なんとなくもわからないのであれば、考えが足りないか、相当つよい思い込みがあるということになります。
力のある言葉を聞くと「わかった気になりやすい」という面もありますので、実践できるようになるまでは謙虚に学ぶ姿勢が大事になります。
実践できて結果が伴うようになったら、自信をもって生きればいいのです。
実際できるようになっているのに、謙虚なつもりで「いや、まだまだ」というよりは、できることをできると素直に認めること、そこにはウソがありませんので、その方がありのままです。
写真は、私の父の二科展での作品です。
・より正しいものの考え方ができる存在
・霊的なものに関わらず、自分より物事がわかっている身の回りの人も、私は上位意識と考えるようにしています。
・より正しく物事がわかるレベルにあり、主に私たちを見えない世界にいながら指導している存在を指します。
・一般的には、神さま、守護霊さん、守護神さん、という言い方をされているものです。
『自分を生きている』と言えますか?
昨日、いらしてくださった方に対しての私の上位意識からのメッセージを、すこし整理して載せておきます。
・困ったときだけ、『自分の可能性を信じてあきらめない』では片手おち。
・良い時も悪い時も、いまをよりよくできる可能性を信じて取り組む姿勢を身につけることが、今の貴重な機会を活かす意味でも非常に大事。
・困ったかどうかは、エゴの判断でしかない。
・どんな時も変わらず取り組めるようになって、初めて身につくようになる。
・エゴの都合で取り組むうちは、エゴを越えることは難しい。
・自分の方向性を、よりつよく明確にしていくためにも、ここは考えておくといい。
というものでした。
前にも書きましたが、今やるべきことがわからない方は、少しでも私の過去のブログに目を通していただくと、いいのではないでしょうか。
限られた時間での取り組みのヒントとして、お考え下さい。
写真は、息子作「釣りキチ三平」です。
前回のブログ「問」の写真も、息子が描いたもので、私がマッサージに使っている手ぬぐいのデザインを真似て描いたそうです。
一週間、お疲れ様でした。
エゴについて、大まかな特徴です。
・エゴは三次元世界の意識
・その意識は思い込みで動いている
・完璧ではないため、エゴは不完全である
意識・無意識にかかわらず、行動には必ず思い(思い込み)が現れており、思いが先にある。
なにか行動するときには、必ず理由がある、ということ。
思いが運命をつくる(因果応報)ので、運命をよくするには、方向性に合わない誤った思い込みを変えなくてはいけない。
その思い込みを変えることで、いまをよりよく生きられるようになっていく。
これから、何回かにわけて書いていきます。
写真は、息子作「こうもり」です。
折り紙の本などを参考にせず、自分で考えたそうです。
胴体をもって上下動させると、本物のこうもりの羽の動きによく似ているようにも見えました。
自分で考えて楽しみながら作っているようで、自分の子供のころではそこまでやることもなかったため、見ていて驚かされたり、感心することがあり、楽しいです。
思い込みを変えるきっかけは、問題を感じたときや気づいたとき。
過去に歪んだことをやった(誤った思い込みで行動した)ので、歪んだものが返ってきた(カルマ)、と考えられると、思い込みをよくしようとしたり、自分のやったことの結果がこれ、と考えられるようになる。
歪みに気づくことで、歪みを正すことができる。
気づいたときに、取り組むことができる。
エゴは、無意識にエネルギーを保つことを優先する。
自分が変わるためには頭や身体を使うため、エネルギーを使うことになり、基本的にエゴはそれらを好まない。
できるだけエネルギーを使わない方向で選択しようとするため、自分を変えようという選択肢をできるだけ選ばないようにする。
しかし、エネルギーが多い方が自分にとって都合がいいこともわかっているので、自分はエネルギーを浪費せず、しかしエネルギーがたまる方法があれば、それを選択しようとする。
例えば、自分はなにもしないで、誰かに何とかしてもらう、など。
幼いエゴは、見えている範囲でしか考えないため、目先の損得で動く。
目先の損得を優先した結果、「誰かが何とかしれくれる」という選択をすれば、「自分を良くしていこう」「成長しよう」という選択肢の優先順位は、下がることになる。
※言葉が足りないところもあると思いますが、いまはあまり長い文章にしてわかりづらくしたくないため、必要があれば後日補足していこうと思います。
「否定」は、ありのまま見ているのではなく、自分の価値観でものを見ているということ。
自分の価値観でみることを、思い込みといいます。
思い込みで見ているということは、なにか都合のいいように、損得でものを見ているということ。
ものごとを都合で見なくなれば、「ありのまま」見られるようになっていきます。
ものごとがわかるようになると、意識的に取り組めた方が結果を出しやすくなる。
幼いエゴのままでは、意識的に取り組めないことが大半であり、「無意識」に任せていても現状維持を目的としたパターンにはまり込むだけなので、結果につながる取り組みでない限り、ずっと結果は出しづらい。
しかし、エゴの私たちは、結果をだせる取り組みはしていないにも関わらず、自分に都合よくエネルギーが勝手に増えたり、たまるようなことを期待する。
棚から牡丹餅をことあるごとに期待し、期待している間は自分が成長するような取り組みが、できないままでいる。
幼いエゴの判断で、現状維持のために損得勘定を優先し続けると、歪みが生じるし、成長しないため、停滞する。
正しい方向性に向けて損得勘定を働かせれば、成長に得なことを考えるので、歪みは出にくく、成長も効率的になる。
停滞から「抜け出す」ためには、そこから「抜け出せる」取り組みをしなくてはいけない。
いまよりも本当によくしようと思ったら、自分よりものごとがわかっている存在に聞けばいい。
それが上位意識。
上位意識があると信じ、その存在との繋がりを育み、まずは自分でできることをやりながら、その存在にフォローしてもらい、問題をクリアする取り組みをしていく。
しかし、取り組みを変えるにしても、方向性が出ていないと、なにをどうすればいいのかがはっきりしない。
「成長する」「進化する」「よりよく生きる」「覚醒する」「実存を見る」「幸せになる」、方向性がそれらに向いているのであれば、真剣に方向性にあった具体的な取り組みをまず考える。
そして、無意識の思い込みで動いている普段の行動パターンを見直し、「成長する取り組み」を意識することで、いつものやり方よりも意識できたものの優先順位をあげ、それを行動に移していくこと。
このように、意識的に無意識の取り組みを変えていくこと。
それを、エゴのチェックとコントロールとよんでいます。
エゴをチェックすることについて。
気を付けたいのは、エゴは無くならないということ。
成長しようが覚醒しようが、この世界で生きている限りは、どこかでエゴが顔を出すことがあるので、それが歪みの生じないエゴの働きかどうかをチェックする必要がある。
わかったつもりで油断していたら、気が付いた時にはエゴの手のひらで転がされていた、なんてことばかりを私たちは繰り返している。
エゴは巧妙に入り込んでくるので、こういうことを意識していなければ、通常はまったく気づくことがない。
意識していても、なかなか気づけないもの。
実体験でわかりやすかったものについて。
ブログの文章を書いていたときの事、ある程度まとめられたと思って掲載しようとした瞬間、ある程度できあがっていることで気が抜けていたところに、「あ、このことも書き足しておこう」と浮かんだ内容があった。
数行だったが、なにげなく書かれている文章の内容は、エゴの歪みを正しいことと肯定するものだった。
間違ったことを正しい、と書いていたにもかかわらず、自分では気づくことがなかった。
冷静に見直せばわかることでも、思いこみが働くと、つい流してしまう。
この時は、ひろかねさんが指摘してくださり、すぐに修正をかけられたものの、自己責任ということから考えれば、通常は誰かに指摘されることの方が少ないこと。
自分で気づけるようになっていく必要がある。
そのため、エゴのチェックを習慣化して、身につけることが大事。
方向性や日々の取り組みによって、上位意識からのインスピレーションが働くようにもなるので、こうしたことを踏まえながら、目の前の取り組み一つ一つを大事にすること。
理解が中途半端だと、わかった気になったり、できているつもりになったり、自分が該当しない高い段階にあるような華やかな勘違いをする。
ついおろそかにしてしまう、というのも、油断したところにエゴがそっと顔を出し、主導権を奪われているから。
自分のことは、なかなか気づけない。
自立の大切さ、自分で判断することの重要性など、こんこんと話されたあとで、
「よくわかりました。これからもついていきます!」
なんてことを、エゴは平気で言えてしまう。
それに気づいて、ハッとする。
エゴを指摘されて気づくことの例として、
「大事とわかっているつもりで、実際はそれができていない」
ということがある。
大事だと思うならすでに行動に移しているはずが、実際は行動にまったく移していなかったり、言い訳して違うことを優先していたりする。
自由が大事といっておきながら、自分の思いこみで人に無理強いしてしまうことをやっていたり、同情についてわかった気になっていたら、ちょっと応用を利かせればわかることに気づけず、エゴの都合を優先していたりする。
家族を大事にと思いながら、実際は帰ってくるなり、自分を最優先して愚痴しか言わない、ということもある。
エゴに向き合うようになると、こうしたことに事あるごとに何度も出くわし、いろいろなケースを繰り返し体験することになる。
気づくことがあるたびに、ショックを受けることもあるが、向き合う以前はもっとひどかったはず。
やってみてわかるのは、思い込みはなかなか簡単には取れないということ。
思いこみはある意味「癖」なので、新たないい癖がつくように、辛抱つよく、何度も、何度も、確認していくことです。
写真は、息子作「あさがお と ひまわり」です。
自分なりにちょっと工夫して描いたそうです。
思い込みは、ひとつクリアしたと思っても、また違う形で顔を出す。
実体験として、特別視は今だに残っていて顔をだす。
一回クリアしたら、もう大丈夫、ということはない。
人に対しての特別視をクリアしたと思ったら、自分への特別視が残っていた。
自分に対しての特別視に気づけたと思ったら、神に対しての特別視が隠れていた。
神や上位意識への特別視を意識できるようになったら、自分の甘えに気づいた、等々。
気づくたびに発見があるが、自分の都合や甘えに依存など、いったいどれだけ歪めてものをみているのだろうか、とうんざりする。
うんざりしても、またこれからもどこかで顔を出す。
「わかっていないことが自覚できていない」ことは常にあるので、こうしたことに気づけるといい。
気づくことで、取り組みがよくなっていく。
取り組んだ分だけ、自分は成長するし、人のエゴもわかるようになる。
一度に完璧にできればいいが、エゴは不完全なので、こうした繰り返しで、自分の不完全さを理解していくことになる。
自分の不完全さがわかると、他者に対しても理解が進み否定が減る。
お互い様、といえるようになる。
対等公平の理解を深め、全肯定への理解がすすむ。
全肯定のこの宇宙は、様々な可能性がある。
なにを選択するかにより、私たちは上を目指していくことができる一方、誤った選択をすれば、下に落ちていく可能性も常にある。
しかし、どちらも可能性。
いまこの時にできることは、目の前のこと。
日々の取り組みとしてできる限り思い込みを減らし、自分に都合よくものを考えないよう、エゴの整理をしておくといい。
転生繰り返して「実存を見る」という最終ゴールに到達するまでは、とにかく折に触れて、エゴのチェックとコントロールを意識的に取り組むことです。
ようは、「ずっとやる」、ということです。
こちらで何度かご紹介させていただいている小妹さん(おいもさん)が、ご自身のブログで新作をアップしました。
ご自身の体験をもとに描いていらっしゃるため、皆さんの取り組みにも役だつ内容となっております。
是非一度、ご覧ください。
私は、続編が読みたくなりました。
自他ともにエゴのチェックをする際にまず気を付けることは、おかしなところ、矛盾していること、間違っている点、それらを見つけること。
また、できていることや結果がでた取り組み内容が正しいことなど、それらを素直に認められたなら自信になり、自分の成長や幸せに役立てられる。
言葉は不完全なので、使い手や受け取り手によってや、使われる時代や状況や場所によっても、その意味が少しずつ変わってしまうもの。
間違ってはいないが、言葉が足りない。
理解としてあってはいるが、まだ途中段階。
そういうものもある。
それらを間違っている、とすることがないように気を付ける。
どんな存在も不完全。
どこか歪みが残っていたり、足りないところがあったりする。
その歪みがあるからといって、否定的に見る必要はない。
エゴの癖みたいなものだが、理想主義的な性質が強い人は、ちょっとした歪みがあるだけで、その相手も丸々信じられなくなることもある。
しかし、自分の都合にあうことだけや、良い面だけしか見ないうちは片手落ち。
より正しい判断は、全体を見ることでできるようになる。
変わらない取り組み姿勢としては、どんな存在に対しても鵜呑みにしないこと。
一度は自分で考えることを、習慣にしておくといい。
誰が言っているかではなく、何を言っているか、で考えること。
人を信じて、まるごと鵜呑みにすると、歪んだものまで受け入れてしまう。
歪んだものまで取り入れていたら、歪んだことをやってしまう。
それではなかなか前に進まないうえ、下手をすれば大きく後退しかねない。
より歪みの少ないものを取り入れることで、よりよく生きられるようになる。
だから、判断を「誰」に委ねるのではなく、「なにを」に目を向けて自分で判断する。
自分のために、自分の頭を使って考える。
他の誰かではなく自分を信じることで、自分を生きられるようになる。
信じられるような自分であるために、日々の取り組みをする。
無意識の働きであるエゴをしつけて、チェックとコントロールが習慣化されれば、意識も無意識も自分をよくするために働かせられるため、取り組みそのものも効率的になり、さらに生きやすくなる。
写真は息子作「りゅう」第二弾です。
上段は、見本にした手ぬぐいです。
現状について、最初に書いておきます。
現在の私の状況を上位意識に確認したところ、月読の大神の指導のもと、五井先生の意向に沿った内容をお伝えしているそうで、私もそのように感じています。
これまで、ひろかねさんと神さまとのやり取りの中で、様々な上位意識、いわゆる神さまたちが現れてきました。
しかし、そのほとんどは名乗ることがありません。
その存在に対して確認することは、責任をもって話せる立場かどうか、どの段階にいる神さまか、ということがほとんどです。
あとは、やり取りの内容をもとに、こちらが都度判断しています。
その中で、名を知っている神様として現れたことがある神さまがいます。
それが月読の大神です。
私が呼んで、ということはなく、ひろかねさんの呼びかけに応じて現れています。
最近ですと、今回私が講師を外された件について、ひろかねさんから月読の大神に確認を取り、
「不許可の指示はだしていない」
という回答を得ていました。
月読の大神の立場で出した指示を、果たして許可なく代わりに覆せる方はいるのでしょうか。
月読の大神の指示で私が講師を外されたと思っている方、ここを一度よく考えてみませんか。
もともと、私の講師としての立場は、月読の大神の指示で決まったことでしたが、実際、月読の大神の名前は、今回の一件ではBBS上には出てきていません。
また、月読の大神の発言として掲載されるものは、あの一件以降ない状況です。
ひろかねさんのBBS左に最後に掲載された内容を見直してみて、この状況を考えていただくといいのではないでしょうか。
初めて月読の大神とやりとりできたのは、2016年12月9日で、その時は一言も話さず激怒している状態でした。
いきなりその状態ですから、最初は誰に対して怒っているのか、なにを怒っているのか分からず、圧倒的な厳しさや存在としての緻密さに、私は言葉が出なくなってしまいました。
言葉が出なくなった理由は、月読の大神のことをエゴの私が語ると、語る言葉ひとつひとつが歪んでいるため、私が話すほどに月読の大神を汚す、そう感じたからでした。
そこで、ひろかねさんが「俺に対してはどうなの?」と聞くと、その瞬間、月読の大神の表情は微笑みに変わり、怒りの対象が私たちではないことが判断のつかない私にもわかりました。
この時に得た情報としては、以下のものになります。
私では判断がつかず、ひろかねさんや私の上位意識にお聞きすると、
・怒りは虚空蔵さんに対して
・彼は、五井先生を利用している(自分の都合のために)
・そのことに対する激怒
ということがわかってきました。
それを確認したからなのか、黙ったまま月読の大神は姿を消しています。
ひろかねさんのBBSへの書き込みは、白光の霊団の働きかけによるものだったことも、私の神さまとのやり取りで得られた情報です。
過去それまでに月読の大神や五井先生からのみなさん向けの回答で述べられた内容は、常にそれを読む皆さんの学びになるもの、として掲載されてきました。
エゴである以上、そこに例外はないはずです。
そこには、それを書き記す方のエゴを指摘する内容も含まれていたのですが、「自分はそこに含まれない」という取り組み姿勢が続きました。
そのため、今のままでは計画がままならなくなるということから、彼をなんとか救いたいという思いから白光の霊団が動いた、とのことでした。
しかし、自由があることと、上位意識のこの世界への直接的な介入は許されていないそうで、「現象界のことは現象界にいる者に直接働きかけてもらうしかない」となり、上位意識たちの意向によって、ひろかねさんは引っ張り出されて、エゴをあぶりだすことをやらされています。
そのため、あのような語気のつよい文調となったのでした。
自分の目で確かめたい方に、考えていただきたいことがあります。
BBS左No.358を読んでいただくとわかるのですが、間違えて消してしまったものがあるそうです。
そこをご自身の目で見て、よく考えてみてください。
掲載されていないものは、BBS右2016/12/6/No.3238、2016/12/11/No.3244です。
考えていただきたいのは、
「書かれている内容のどこが間違っているか」
ということです。
みなさんの学びの場として提供されている掲示板ですので、キチンと考えなくてはもったいないと思いませんか。
どう感じるかは個々によって異なりますが、私は今の時期は運命の分かれ道でもあり、「人生」ではなく「魂」の今後の行く末の大正念場だと感じています。
命がかかっていると思えば、普通は真剣に考えるでしょう。
真剣に考えることができれば、必ず上位意識の働きかけがあることは、すでに何度も書いてきました。
こちらの文章を大して見もせず、来たことも無く、ただ言われるまま鵜呑みにしている人たちの書き込みを見て、どう感じますか。
後悔なく生きることを教えられてきて、そんな適当な取り組みをすることが、魂をかけた取り組みであると胸を張って言えるのでしょうか。
丁寧に見ていけばわかることです。
よく考えて自分で判断したのであれば、誰かのせいにはしませんし、どういう選択をしたとしても後悔が残らないはずです。
過去に「情報の読み解き方」でも書きましたが、私たちはエゴで生きている以上、どこか歪みが混じります。
たとえ全体像がみえなくても、断片的に書かれている正しいこと、役に立つこと、それらを一つ一つ拾い上げて自分に活かせるように考えないと、自力のみでの成長では途方もない時間がかかります。
ここでは、あと2か月弱ほどの時間制限を、すでにお伝えしてあります。
限られた時間で結果を出すことが求められているのですから、より正しい情報を真剣に求めた方がいいですし、間違った情報は整理して振り回されないことも必要です。
「誰」を信じたい方は、自由があるので好きになさってください。
しかし、その「誰」のエゴのフィルターをまず見ようとしないと、どれほど情報が歪められて伝えられているかわかりません。
私に対してひいきに思ってくださる方たちがいて、今回の事に腹を立てた方もいらっしゃいましたが、そうした見方ではその方の進歩が滞るのです。
私のエゴのフィルターが、どの程度情報を歪めているか考えようともしないで話を信じられても、責任をとるのは信じて行動に移したその方なのですから、私は責任をとれません。
その人となりがある程度わかれば、ここは信じていい、ここは注意して読んだ方がいい、そういったことがすこしはできるはずです。
意識して取り組めば、より一層その精度は上がります。
何度も繰り返し書きますが、過去のブログなど読み返していただき、よく考えてください。
エゴを薄くすることがわからなければ、いらして話を聞いてください。
いま取り組めることなど、淡々とお話しているように見えるかもしれませんが、真剣に考えてお伝えいたします。
大事だと思えば行動する、行動に移してこなかったことは、大事だと思っていなかっただけです。
行動や態度にすべて表れます。
あとで言い訳しても、意味をなしません。
五井先生の取り組みは光明思想とよばれます。
それは、否定を減らして肯定的に物事をとらえていく考え方であり、全肯定の考え方です。
ですから、ひろかねさんの取り組みと教えていただいた内容は、五井先生の教えと同じ方向性ということになります。
これまでの取り組みを否定するものではありません。
そのことを元に、私がいまできることをしています。
最後に、BBS左のNo.358の中でひろかねさんも書かれていますが、月読の大神と五井先生がBBSで語られることはもう無いようです。
異なる上位意識が代わりに語り掛けることはあるかもしれませんが、一線ひかれた、ということのようです。
このお話も、ご自身でお考え下さい。
見えない世界のお話ですので、誰かに聞いても、その誰かの都合に歪められて答えが返ってくるだけかもしれません。
いまやるべきことはなにか、大事なことはどれか。
自分で考えなくてはいけない理由は、すでにこれまでにも書いていますので、ここまでとします。
宇宙全史でこれまで学んできた方にとって、これから目にする内容は、非常に刺激的だと思います。
いらした方にはお話してきたこともありますので、そういう方は、改めて確認しながらご自身でもお考えください。
初めて目にする方は、否定的な印象をもたれるかもしれませんが、御自身で判断する機会になりますし、御自身の思い込みに気づくいい機会にできるかもしれませんので、なるべく自他の都合や思い込みを持ち込まずに読み進めていただくといいと思います。
今回から、講師の件を取っ掛かりとして、虚空蔵さんのエゴについてなど、私が感じてきたことを書いてみようと思います。
宇宙全史は月読の大神が指導されているワークでしたので、「その~」も含めこれまでこうしたことを書いてきませんでした。
しかし現在は、月読の大神がBBSに対して一線ひかれた状況であることと、私が皆さんを指導する立場は引き続き認められていますので、皆さんの思い込みを減らす、エゴを薄くするなど、そうした目的で書いていこうと思います。
基本的に誹謗中傷が目的ではありませんし、そうしたことをするつもりもありません。
ただ誤解を招きそうなので先に書いておくと、自分の判断に基づき、「間違っていることに対して間違っている」と、ありのままと思うところを書くことなので、その通りであれば否定ではありません。
好き嫌いの嫌いは否定とは違う、というお話と同じで、違うものや間違っているものをそのように指摘することは、否定ではありません。
その時々で受け取った私の上位意識からの言葉も絡めて書くことになると思いますので、そこは楽しみながら、しかし真剣に考えていただき、皆さん各自でご判断ください。
今回、お互いの自由を認めてかどうかはわかりませんが、「一緒にやる気はないよ」「もう関係ないよ」という態度で、虚空蔵さんからは一方的に私の名前を削除されましたので、私は自由な立場でお話もできます。
私が感じてきた虚空蔵さんのエゴについて書くことで、自分とは異なる視点から考える機会にもなりますので、読んだ方達ご自身の思い込みに気づいていただき、よりいっそう意識レベルを上げられる機会にもできます。
なぜなら、これによって読んだ方の思い込みが減れば、よりありのままに近い状態で物事が見えるようになるため、気づいた分だけその方の意識レベルが上がっていくからです。
先日更新したブログでも書きましたが、私の宇宙全史での講師としての立ち場は、月読の大神の指示によって始まっています。
その講師について先ほども書きましたが、BBS上で私の名前は削除されました。
しかし、今回の一連の掲載のなかには、一言も「月読の大神」の名前が出てきていません。
そこで、それを踏まえてこちらで直接確認をとることにしました。
すると、ひろかねさんの働きかけによって月読の大神から得られた回答は、
「不許可の指示はだしていない」
という一言でした。
この一言を皆さんがどうとらえるかですが、私には虚空蔵さんに対して積み重ねてきた判断がいくつもあり、それらも踏まえて今回の事について出した結論は、
「虚空蔵さんが独断でやった」
でした。
その判断してきたことをこれからいくつか書いていくのですが、今回の事について私の判断が正しければ、彼は月読の大神にきちんと確認することなく、上位意識の指示に対してエゴの価値観を優先したということになり、「自分の方が上である」と、態度で示したことになります。
その通りであれば、絶対やってはいけないことをやってしまった、ということになります。
また、講師を外すことに対して、誰が聞いても納得できる説明は、普通に考えればできることなのです。
例えば、
「宇宙全史で公式に開示しいていない情報を、こちらに確認することもないまま勝手に掲載しつづけたので、こちらとしては責任をもてませんので、講師をはずします」
と一言載せれば、見えない世界を信じない方でも納得いく話になります。
しかし、そういった書き方はせず、本当かどうかもわからない、しかも場合によっては悪意さえ込めて創作されたかもしれない過去世を元に、ひろかねさんに対してその人となりを決めつけました。
また、身元が明らかになる立場の私に対しては「憑依されている」と、一般的に悪印象を与える、通常では確認の取れない一方的な判断を、不特定多数の方が閲覧できるところで掲載したことに対して、私は非常に違和感を覚えました。
子供たちの名前も過去に投稿して掲載されていますので、そのことは掲載してきたご本人もよくご存知だと思うのですが、仮に忘れていたとしても、そうした当事者以外への影響も含め、このような無責任な対応をされる方が、どういった立場で、なにを指導しているのでしょうか。
今回のことで書き込まれた内容を見ればわかると思いますが、いい大人ですら、キチンと確認もせずに信者となって賛同してしまっています。
人づてであっても、子供が聞けばどういう反応をするかくらい、お子さんもいらっしゃる立場であれば、わかりそうなものです。
「礼儀」を人に求めるのであれば、ご自身は一体どうなのでしょう。
自分のことを棚に上げて話をされているのであれば、まだ特別視がしっかり残っていることになるため、意識レベルを上げる取り組みを誰よりもやってきたかのような掲載文をこれまで何度も見てきましたが、実際身になる取り組みができていないということになります。
今回、そうした内容を書く必要性が、いったいどこにあったのでしょうか。
必要性として考えられるとすれば、エゴの都合です。
そこから見えてきたことについて羅列すると、
・自分は特別な立場で絶対的に正しい存在
・そんな自分にたてつく奴は悪い奴
・その悪い奴に従うやつも悪い奴
・でも自分の都合目線での悪い奴なので、なにを使ってでも、誰が見ても悪ものに仕立て上げるよう印象操作する必要がある
・確認が取れないもので書けば、反論できない
・特別な立場で書けば、信じている人も多いから、確認が取れないものでも許される
・過去世など、他ではできない自分だけのやり方で特別視を強調すれば、さらに見ている人を信じ込ませられる
・結果、たてついた奴は悪者になり、それをやっつけた自分の株は上がる
このように思えるのですが、いかがでしょうか。
見えない世界のお話はいいのですが、それが本当に正しいかどうか、他の人にはわかりません。
他の人にわからないものを根拠に、人のことを決めつけて公表するのは、どうなのでしょう。
私も見えない世界の情報を書くことはよくありますが、皆さんに考え判断してもらいながら読んでいただけるようにしているつもりです。
絶対的に正しいとは言えませんので、「私は信じているけど」、というスタンスで書いてきています。
講師になる前あたりから私が投稿しなくなるまでの私のBBSへの投稿について、当時いらしてくださる方たちとお話していて気付いたことがあります。
それは、全部ではありませんが、私が投稿した文章のほぼすべてが掲載されていた、というものです。
「投稿したけれど、なかなか掲載されないものですね」ということを、よく聞いていたため覚えていました。
一部掲載されなかったものもあると思いますが、掲載されたものものも含め、いまではほとんど覚えていません。
ただ覚えていないなりに考えてみると、ひろかねさんについて尋ねたこともあったかもしれませんが、URLを載せようにも、載っているサイトなど私は知りませんので、可能性があるとすれば、「私のブログを見てください」と載せたのかもしれません。
しかし、当時の私の文章を見ていただければわかるように、「見なさい」という態度で書くはずもなく、なにかしら気を使った文章で送っているでしょうから、確かに足りない面は多々あるにしても、礼儀をわきまえないとばっさりやられるほど失礼なことをしたとは思えません。
あの頃URLを含めて送ったかもしれないものは、他の方のブログで「InDeep」の南極の氷のお話と、小妹さんの描いてくださった漫画を見てもらうため、が考えられます。
なんにせよ、不確かな情報や判断をもとに私は悪者扱いされていますし、ひろかねさんに対する対応も、一見筋が通っているように見えている方もいるかもしれませんが、丁寧に見ていくと疑問がでてくるような対応をされていることがわかってくると思います。
余談ですが、ひろかねさんに教わるようになって自覚させられたことがあります。
宇宙全史で学び続けてきた結果、具体的になにがどう役立ってどれくらい成長したのか問われた時、自分ではわかりませんでした。
なぜなら、ほとんど成長していなかったからです。
これは自分の問題もありますが、わかったつもり、成長したつもり、と、つもりだけが積みあがったうえで、しっかりあぐらをかいていました。
具体的な取り組み方法まで理解して、初めて行動に移せます。
BBSとひろかねさんの教えてくださる内容の違いは、その取り組みの具体性にあります。
結果をだすためにどうするか、という考え方なので、成長も実感しやすいのです。
今回は長くなりましたので、ここまでで一旦区切ります。
BBSのその後の方向性を決定的にしたことですので、真理を曲げる意味について書いておきます。
神といっても様々な段階がありますが、月読の大神ほどの神様となると、真理をつかさどる存在ですので、歪みの多いエゴがそうした存在の決めたことを勝手に覆すようなことをすると、真理を曲げたことになります。
ひろかねさんの発言に対してもそうでしたが、体験した人の言葉を体験していない人が否定することはできません。
なぜなら、「正しいこと」を「間違っている」ということになるからです。
ひろかねさんに限らず、エゴで生きている人が実存を見るような高い覚醒体験をすることは、人類の意識進化を目指すうえで非常に貴重なことです。
誰も到達していない道を切り開いたわけですから、意識の進化を純粋に求める方であれば、きちんと話を聞きたいと思うのが本来の姿勢ではないでしょうか。
ひろかねさんはBBSでこのように書いていました。
『体験した人の言葉には力があり真実がある。
その人の言葉を信じられたなら信じた人も力と真実に近づくことができる。』
そこを確認もせず、一方的に間違っていると判断してあのように回答したことは、求道者の取り組みとして偏りを感じます。
思い込みで生きている私たちは、エゴが考える狭く偏った考え方にはまり込み、そこから抜け出せずに一生を終えていくことがほとんどです。
なにが正しいかを明確に知ることができるとしたら、幸せを求める者にとっては、これ以上ないくらい貴重なものとなるはずです。
そうした貴重なものを歪めて信じてしまうと、信じた人が気づかない限り、正しい結果を出せなくなります。
生きづらくすることがカルマを積むことですので、影響力のある立場で間違ったことを伝えてしまうと、それをみんなが信じて実行してしまった時に、非常に大きなカルマを積むのです。
宇宙を歪める方向でやったことですから、宇宙に対してちっぽけな存在であるエゴにそれがカルマとして返ってきたら、ひとたまりもありません。
冒頭でも書いたように、真理をつかさどる存在に下位意識がたてつくような行為も同様です。
真理を曲げるということは、絶対やってはいけないことなのです。
また、そうした行為に安易に賛同することがなにを意味するのか、わかっていないと思わぬところで自らの運命を思わぬ方向に決定づけてしまうこともあるので、ここはよく理解していただくといいと思います。
私がこれまでもお伝えしてきた方向性としては「地球に残ること」、そのための最善と思えることとして、ひろかねさんから教わった「全肯定」を皆さんにお伝えしています。
一方、虚空蔵さんの方向性は、BBS右No.3238の回答に書かれていた「全否定」だと思います。
あの時点で、虚空蔵さんの取り組みの方向性が、はっきりさせられました。
「全肯定も全否定も、一元ということでは同じレベルの話であり、全否定でも実存を見ることはできると思うよ」
これは、ひろかねさんから最近聞いた話です。
ただ、「全」とはついているものの、どちらも「100%」の肯定や否定ではありません。
95%くらい否定できれば、全否定といえるらしいのです。
(肯定も同じで、微かに否定は混じるようです)
なぜなら、「否定」するということは、そのことを「やらない」「行わない」、と
いう意味でもあり、生きている以上は息をしなくてはなりませんし、体を維持するために最低限の食事や飲水などを「行なう」ため、肯定をすべてはずすことはできません。
ですので、最低限の行為として、肯定がどうしても必要になるのだそうです。
それを実際にできる人がいるかどうかはともかく、実践するとなると、
・日常生活から切り離して山奥にこもるなどする
・生命維持のために必要最低限の活動をする以外は、否定としてそれ以外は「やら
ない」ということを覚醒するまで続けられたら、実存をみるような覚醒になる
・でも、普通は覚醒する前に絶望して終わるだろうね
理論上はそうした形での取り組みになるようですので、できなくはないようです。
自分が求める幸せ、それにあった取り組みであれば、いいと思います。
ひろかねさんがおっしゃっていた全肯定と全否定の関係を考えると、どちらも行き着くところは同じです。
どちらを素直な気持ちでやりたいと思えるか、一度自分で確認してみるといいのではないでしょうか。
ただ前回書いたように、真理を曲げてしまった方については、取り組み方としての可能性はあっても、到達できるかどうかや、どこに到達するかは、別の話になります。
昨年2016年の4月に洞爺湖に行った際、上位意識から一言ありました。
そこでいわれたことは、
「『20年後・・・』の発行で、彼の役割は9割終わった」
というものです。
あと1割はこの時点でよく確認をしませんでしたが、後日確認したところでは、救世主が出てくるタイミングかなにかを語ることが残されていたようです。
そして、最近「救世主3体1組」のお話が掲載されたのを見た時、
「(情報を)大きく歪めちゃったね」
と上位意識から一言ありました。
「先延ばし」されることによって状況も変わるため、よりよい可能性を求めて計画の変更は常々なされています。
そのため可変事項もありますが、月読の大神から公式に出された内容としては、いまでも別巻に書かれていた「10組20体」が、やはり基本的な計画としての情報のようです。
別巻に書かれていたユートピアとしての地球は、「その~」で書いたように状況が変わり、意識の進化を求めるには、これからは地球が一番いい場所となっています。
ですので、私が最善と思えることとして、この地球に残れる方法をお伝えしています。
そして、その方法を実践するのは、いまこの時です。
皆さんに考えてほしいのは、虚空蔵さんもエゴで生きている、ということです。
私たちと変わりないエゴで生きているにも関わらず、聖人や完成された人間であるかのようにとらえ、間違ったことを言わない、正しいことしか書かない、そう思いこんで見てしまっていませんか、ということです。
全体を見て、初めて正しいことが見えてきます。
エゴで生きているのに、自分達の都合のいいところだけ見て、他のエゴの歪んだ処を否定していては、全肯定にはなりません。
「自分の都合」というフィルターをスッと外せればいいのですが、思い込みがあると拒否反応がでますし、具体的に書いても気づきたくなければ、わからないままということもあります。
変わりたいのであれば、自分の都合で見るようにしていないか、考えてみて下さい。
そのようにして考えられるようになれば、より正しい情報に気づきやすくなり、成長に役立てられるようになっていきます。
間違った情報に気づければ、そこに時間をかける必要もなくなり、取り組みの効率があがります。
特別視するような情報を信じてしまうと、鵜呑みにして自分では考えられなくなり、より一層気づくことがままならなくなります。
人を美化して、エゴの歪みが無いかのように思い込んで見ているうちは、エゴを認めず、どこか否定を残してものを考えています。
足りないところがあるんだ、間違った解釈をしている場合もあるんだ、と、エゴを認めて気付ければ、それを元にどうするか考えられ、意識してコントロールできるようになっていきます。
ですので、いまは「こういうエゴがありますよ」ということを書いて、皆さんに気づいていただけるようにしています。
私は、ひろかねさんに地道に懇切丁寧に教えていただくことで、ずいぶんと変わった実感があります。
その中でも、虚空蔵さんのエゴを認められるようになったことは、非常に大きな変化だと今でも思います。
そして、自分で考えるようになり、自分のエゴにも気づきやすくなっていきました。
「言うことはすべて正しいと」いうように、虚空蔵さんのエゴを認められないうちは、自分で考えて結論を出したり、結果をだすための取り組みについて、理解しようとはしていませんでした。
わかった気になり、できているつもりを積み重ね、妄信する信者になろうとしていました。
書かれたことを自分では大して考えもせず、いわれるがままにやり、特別いい結果がでることを期待するようなひどい状態でしたので、いまでもそこから抜け出すことの延長で取り組んでいます。
いまも当然思い込みはあるので、気づいた時に気づいたことを変えるようにはしていますが、成長を実感しつつ、気づいて凹んで立て直す、そのことの繰り返しです。
時間はかかりますが、地道な取り組みが大事ですし、それはお祈り以前に自分でできることです。
自分で気づくことの大変さを実感していますので、やる気のある方の気づくきっかけになればと思い、いまはなるべくブログに書くようにしています。
ひろかねさんに教えていただいた取り組みは、実際にご自身で結果をだせたものですし、私も覚醒体験をできています。
BBSに関しては、難しいことや特別なお話はあるにしても、書かれている内容から判断すると、虚空蔵さんがエゴを薄くする取り組みをご本人が書かれているほどはできているようにはみえません。
また、月読の大神や五井先生がどうかかわっているかは書きましたので、今後覚醒する方向に向いているとも、正直思えません。
なにをどうしたら、自分の目指す方向で結果がどれくらいだせるのか、考えてみてください。
上位意識の指導のもと、私たちは正しい取り組みができるようになれば、カルマを解消し意識レベルを上げることにより、覚醒する可能性はあります。
希望する方たちには、そういう方向での具体的な取り組みを、いらしてくださったときに個別にお伝えするようにしています。
写真は、息子作「ワニ」です。
字を装飾したため、「ワテ」に見えますね。
BBSでのひろかねさんの投稿が2016年12月に初めて掲載されて、年が明けた頃だったでしょうか、五井先生の名前がBBSに出てこなくなった時期がありました。
ひろかねさんの投稿の中に、五井先生と同じ考えであることが書かれていたことに対して、なんらかの拒否反応がでていたのかもしれません。
このとき、私の上位意識からは
「次に五井先生(の名前)が出てくる時は、もっと上から(五井先生を)利用するように書いてくるよ」
と言われていました。
その後ほどなくして、BBS右2017/2/4 No.3338が掲載されました。
その中の回答が、このことにあたります。
濁して書いていますが、ひろかねさんが書いているように、「自分が一番」というエゴ肥大した結果が、ここには表れていると感じました。
「遊撃手」にあやかるというのか、自分の本体であるということを理由に、それを利用していることを感じます。
また、さらに前の2016.11.26.No.3227の回答では、地球人類がどうにもならなくなっている、ということに対して、「彼ら自身が」という書き方をしています。
エゴの私たちにとって、本体が遊撃手や名のある神さまであろうとなんであろうと、やっていることや言っていることがおかしければ、まったく意味をなしませんし、結果が出ていなければ取り組みの正しさも実証もされていないことになります。
実証されていないのであれば、なにを引き合いにだしても大して意味はありません。
判断をしないで生きていると、こうしたことに価値があるかのように思えて、信じる根拠にしてしまいます。
「※※の神さまがついている」「※※※の生まれ変わり」というのも、結果が出なければ同じことです。
結果がでるまでは、判断のつかないそうしたところよりは、実際に確認のとれる現在の取り組みなど、「なにを」に目を向けることが大事になります。
地球人類というくくりにおいて、エゴ主体で生きている以上は他の人たちと変わりません。
自分をかやの外に置く理由はありませんので、こうした何気なく思えるところに、思い込みは顔をだします。
個性や能力の差はあってもエゴはエゴであり、覚醒したとしても因果応報は平等に働くので、自分を特別扱いする理由はないと私は思っています。
すこし前に更新した右のNo.3475の回答だけではありませんが、非公開情報の権利取得に関して、月読の大神に確認を取ったかどうかの確認が書かれていないことがあります。
確認をとった風な書き方をしているところもありますが、明確には書かれていないことがほとんどではないでしょうか。
上位意識の判断を端折って書くことは、できる立場にないと思います。
端折って書くということは、相手をおろそかにしていたり、慢心によって自惚れている可能性があります。
例えば、社長の決定事項を部下がなにも説明しないで発表するようなことを、会社組織ではやらないでしょう。
非公開情報のA~Eのランク分けは、実際のところ、その根拠がはっきりしません。
個々に振り分けはなされていますが、ワーク全体の方向性としてそれぞれの意識レベルを上げる目的があるなら、学びの場でもあることですし、明確な基準に照らし合わせて、都度その理由を書くべきです。
なぜなら、理由がはっきりしないことで、エゴ勝手な判断で自分に都合よく考えてしまうからです。
よくわからない規準のもと、このシステムのいったいどこに学びがあるのでしょうか。
私から見ると、非公開情報のカテゴリー分けは、エゴの歪みを助長しています。
エゴである以上は、私たちは他の人とあまり差はない「どんぐりの背比べ」です。
自分を特別視しないためにも、こういう意識は大事です。
また、「他の人にできるなら、考えてあきらめずに取りくめば、自分もできるかもしれない」と、他者に対する特別視を減らして、自分の可能性を広げていくためにも、大事なことです。
意識レベルを上げるというのは、生きやすくなる、ということです。
情報を丁寧に見て考えていくことで、判断できることがあります。
エゴによる歪みの刷り込みは、正論を書いたあと、それを信じて油断した頃に忍ばせてきます。
書き手には自覚がないため、読み手は「だれ」ではなく「なに」に注意して見ていないと、まちがったことをそのまま信じ込んでしまいます。
エゴのチェックでは、そういうところにも気を付けます。
非公開情報は、一生かけて一つみつけられるかどうかの秘儀、みたいな話も以前載っていた気がします。
私の実感として、ひろかねさんから教わった内容は、非公開情報で書かれている内容と時に重なることもありますし、より具体的です。
実際に役立てられて情報は意味があります。
わかったつもりでは、役にたちません。
施術の際には役に立つ話をしていますので、興味のある方は是非一度お越しください。
2017/8/21 No.3441の回答の最後に、
『(救世主についてはあまり関知しなくてもいいのです。彼らの役に立とうとか、彼らの礎になろうとかどうでもいいことです。救世主には救世主の天命があり、あなたにはあなたの天命があるのですから)』
と書かれていました。
エゴの本より救世主の話を優先して先に出すことと、矛盾している内容です。
宇宙全史求聞持法について。
記憶が不確かなので調べてみると、最初に求聞持法について触れたのが、BBS左2016/1/7 No.311だったようです。
BBS左2016/1/7 No.311
『この「宇宙全史求聞持法」は、今の私たちの生活に合うように少し簡略化されていますが、その効果は中々のもののようです(まだやっていないので分かりませんが)。』
『空海の求聞持法は、精神といいますかスピリチュアルな面に強く作用するものですが、この「宇宙全史求聞持法」は、肉体にダイレクトに作用します。
特殊な真言を100万遍唱えるというシステムは虚空蔵求聞持法と同じです。
果たしてどうなってしまうのかお楽しみに』
BBS左2016/1/12 No.312では、
『●私はすでにその修法に入っています。
入ってからわかったのですが、100万回の成就まで待たずに、すでにその効果が現れて来ています。
私自身はもちろん、私の周囲の人たちから、非公開権利者、このBBSで真剣に学んでいらっしゃる方たちへと、その効果は波及しているはずです。
驚きました。
こんなに即効性のあるものとは思ってもいなかったので、始まったばかりですが、何とか最後までがんばりたいと思います。』
BBS左2016/1/29 No.313、
『あと一週間です
果たしてどうなってしまうのでしょうか
おそるべし宇宙全史求聞持法』
100万回やるにはどれくらいかかるのかを、このとき計算してみました。
世界平和の祈りをできるだけ早口でやってみたところ、約6秒でした。
それをもとに計算してみると、
・1分で10回
・1時間で600回
・10時間で6千回
・100時間で6万回
・1000時間で60万回
・1500時間で90万回
・約1670時間で100万回くらい
ということになりました。
1日18時間使えば約93日、仕事もあり、実際あてられる時間が4時間ほどだとしたら、約418日です。
求聞持法の文言を知りませんが、「どう考えても、1月に始めて2月の節分に間に合わないよな、これは」と考えていました。
とりあえず、完全覚醒という結果は出ていませんし、求聞持法の取り組みについてその後どうされているのかも触れられていないのでわかりません。
しかし、できないことをできる気になるのは、自分に対する特別視があるからです。
完全覚醒を前にして、まだなお「慢心」というエゴがあった、ということです。
ひろかねさんが覚醒体験をされたときは、その翌日に私に電話をくださり、一つ一つ私の神さまに確認をとり、納得するまで質問をされていました。
また、小妹さんの漫画にも描かれていますが、「同じエゴなんだから、自分にできたら誰でもできる」という考えは今でも一貫している方です。
はっきりものをいいますが、きちんと理屈で説明できる筋の通った方であり、慢心があると私がひろかねさんに感じたことはありません。
しかし、その覚醒体験時の様子をBBSでは、「その瞬間『慢心』というエゴにとらわれ」と書いています。
BBS右2016/12/11 No.3244の回答、
『あなたは実際にマニピュラチャクラ(太陽神経叢の辺りにあります)が一時期開いています。
しかしその瞬間「慢心」というエゴにとらわれ
「自分は違うんだ」
というエゴがチャクラの開花を止めてしまっています。
その「自分は特別な存在」「人とは違う選ばれた人間」という驕りがその領域に道筋をつけてしまったのです。』
と書いていますが、上位意識がいうには、これは虚空蔵さんご自身の節分のときのことのようです。
また、ひろかねさんの過去世として書かれていることについては、ひろかねさんご本人と重なる感じがまったくせず、エゴで勝手につくった話であると私は考えています。
BBSについては、
「ここまででひとつ区切り」
と、前回書き終えたあと上位意識からインスピレーションがありました。
今後もなにか書くかもしれませんが、とりあえずそういう状況です。
私たちにはエゴがあります。
あると思って見ていれば、無いかのように鵜呑みにするよりは、間違った判断が減ります。
自分で考えなくなってしまうと、自分の進みたいと思っていた方向とは異なる方向に進んでしまうこともあります。
自分が進みたい方向に正しく進むためには、上位意識との繋がりのもと、自他の思い込みに気づいて自分で判断していくことです。
写真は、息子作、「柵」です。
最近は、自分の成長に役立てられる情報と思えたことを、信じて理解に努めるようにしています。
いま信じているものは因果応報で、それ以外では自分自身のことを信じられるように取り組んでいる最中です。
因果応報について理解が進むと、判断する際に都合を持ち込まなくなっていきます。
情報は、その発信する人の都合に合った内容にアレンジされているので、自分に活かすには、これまで書いてきたことを通して判断できる自分を磨くことです。
自分で判断できるようになると、間違いに気づいた時に自分で修正をかけられます。
鵜呑みにして突き進むと、間違いに気づいても自分では修正や制御ができないことがあります。
因果応報の理解が進むほど、自分で判断することの大切さがわかります。
偏らず自分がなにをやっているかわかるのが中庸
わからないから後悔する
一生懸命やっていても、のんびりやっていても、こだわりなく偏っていなければOK
レベルは関係ない
読んでくださっている方の理解が少しでも進むようなことを、ブログでなにか書きたいと考えていたのですが、ひろかねさんから教えていただきわかりやすかったので、掲載しておきます。
私は、大事と自覚して取り組める生き方、と考えました。
8月23日から始まった3ヵ月というお話ですが、昨日の10月23日に、1カ月前倒しで区切られました。
私たちの日常生活ではあまりそういうことを実感することもないまま区切りを迎えましたが、神さまたちの取り組みは結果をだせず、この宇宙を今までよりよくするために、全体として作り直しの方向に向かい始めたようです。
あちらの世界でも今後の方針に反対するものたちが多数いて、結果を出せなかったようでした。
ここでいう宇宙とは、オーム宇宙ではなく実存以下の宇宙を指します。
これは初めてのことだそうで、どういう内容で作り直すのか、すでに決まっていることもあると思いますが、これからある程度時間をかけて話し合われていくようです。
いまはおおまかなことしかわからない状態です。
ユートピアやディセンションなど3つの段階にわけて、というお話もリセットになるようです。
しかし、ある存在にとってはこの状態でさえ、よりよくするという方向性にあっているため、計画通りに進んでいるといえるようです。
状況がはっきりしないものの、私がお伝えしていく個々の取り組みは、これまでと変わりません。
どういう状況であっても変わらない取り組みをお伝えしてきていますので、自分が生きやすくなるよう、現状をよくするように続けていただければと思います。
作り直しといっても、丸々すべてをやり直すのか、歪みの少ないものは残していくのか、そういったこともわかりません。
ただ、生きている限りいまやったことがこれからも返ってきますし、作り直したあとの宇宙は全肯定を目指すことになるので、どちらにしても今までお伝えしてきた取り組みはよりよい選択になります。
大まかな状況としてお伝えはしていますが、ご自身で判断することに変わりはなく、確認のとれないお話を書いていますので、目の前のことに集注していただければと思います。
これまでの経緯があるため、書くことにしました。
18日(水)の朝、新年を数日後に控えたすがすがしさのようなものを感じたのですが、その夜この事が決まり、こういうことだったのか、という感じがしています。
事前にみなさんにお伝えすることも考えましたが、それはしなくていい、ということを何度も感じたため、事後報告とさせていただきました。
また、20日(金)の昼間、「あなたの役割は一つ終わった」とあり、その時はなにを指しているのかわかりませんでしたが、もう宇宙全史に関してなにかをする必要はない、といまは感じています。
五井先生や他のことはともかく、今後は宇宙全史について率先して書くことはしないと思いますし、関連してのご質問もブログで答えることは私の役割ではないようですので、なにかあればあちらでお尋ねください。
関連して気になることなどあれば、いらしたときに直接お尋ねいただければと思います。
ブログについても、いろいろな方が読みやすい形になるよう、今後は考えていくつもりです。
「存在の有無」という考え方でいうと、全肯定は「有」で、全否定は「無」に通じるものです。
ニサルガのお話に、「私は誰か」の答えとして、「あれではない」「これではない」という回答が書かれていますが、全肯定の考え方からすると、これらは肯定的な回答です。
「あれ」という対象物を認めた上で、「あれと自分は違う」と差異を認めているだけだからです。
全否定であれば存在を認めていないため、回答はまた違うものになるでしょう。
差異を認めることが、存在を肯定したうえでなされています。
ですので、タイトルも「私は在る」です。
「私は無い」ではありません。
このことは、先日の共有の心さんからのご質問の回答にもなるのですが、他者との関わりの中で
「そういう考え方がある」
と認めるだけで肯定になり、
「でも自分は違う考え方だよ」
と自分の考えも肯定することで全肯定に向かっていきます。
地域や時代によって言葉の解釈やニュアンスは少しずつ異なりますし、翻訳されるとさらに複雑になります。
10人で伝言ゲームをすると、3人目ですでに言葉が大きく変わってしまうことがある、というお話をしてくださった方が患者さんでいましたが、そうしたことも含めて考えると、情報を丁寧に読み解く必要性を改めて感じます。
いつも朝から昼過ぎまでは往療に出ているのですが、今日は天気もよく、久しぶりに多摩川の土手に腰かけてひと休みしました。
すると、座っている横で動ているものを見つけ、それが写真のクワガタでした。
季節の感覚がずれてますね。