「善・悪」について

ある方とお話していて善悪についてわかりやすく教えていただく機会があり、自分なりにまとめたものを先ほどBBSにて質問させていただきました。

 

こちらにほぼ同じ文章を掲載しますのでよければ読んでみてください。

 


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考え方、など

宇宙全史をご存知の方向けの問いかけとなりますが、夏至が過ぎ数日経ちますが、なにか変化を感じている方はいらっしゃいますか?


BBSの昨年の夏至の頃の更新が一つ目安ではないかと思います。


興味のある方はご自身で宇宙全史のBBS内にある左のNo.271を確認してみてください。



反映の仕方は人それぞれだと思いますし、ありのままで自分を見つめていないと実際との間に差異が生じ、思っていたようにいかない焦りやいら立ちがでてしまいます。


すぐに反映されないこともあれば、カルマの解消が先だってでることもあり、無用な葛藤を生じさせないための平常心を心がけていることが大事だと思います。



非公開情報の取得もいい例ですが、知りたいと思っても知りえない情報は山のようにある中で、それでも目の前にあるもので勉強することはできます。


そこで変に焦ってしまうとおかしな行動をとりかねません。


いつもなら手を出さないようなことに「つい」手を伸ばしてしまうこともあります。


余裕があるうちはよほどまでそういうことはないのであれば、その余裕を保つためにどうしたらいいかを考えることが今できることだったりもします。


休む、寝る、一息つく、そうしたことを意識的に行うようにしてください。



先日いらした方を施術していて、その内面に見渡す限りに広がる重苦しい世界を感じたことがありました。


視覚的な大きさで言うと人の体の何倍というレベルではなく、高台から見下ろす町並みや遠くに連なる山脈が見えるような規模で、その視界に入る景色がナウシカに出てくる腐海の森のような有様になっており、人の抱えているカルマやエゴの膨大さを感じた気がし、ちょっとこれは一生かけてどうこうできるものではないな、というのが正直な感想です。


もしその通りだとしたなら、五井先生がお祈りを通して引き受けてくださることの有難さ、その意味を考えるきっかけとなっています。


エゴがでるようなことをして自らの首をしめるようなことがないようにしたいと思います。



少し前に夢を見ました。


海辺でたくさん小型のボートが並んでいるところを、沈みそうになりながら暴走する1艘の小型ボートがありました。


そこに乗っている方は沈むとわかっているのですが、


「こういう非常事態時はシートベルトを締めなくては」


と平常心を保っているつもりでシートベルトに縛られて沈んでいきました。


慌てて私がシートベルトを外し、一生懸命水面に押し上げていると、不意に水面上から誰かが手を差し伸べて引き上げてくださり、その方は助かりました。



夢はここまでですが、その後施術をしていて感覚的にこういう状況の方が数人いらっしゃいました。


日々様々な理由でやるべきことを先送りにしたり、思い込みの正論で自らを縛りエゴを増やして沈んでいく。


ひとつの例えとして考えていただくといいかと思います。



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ヒントになれば

五井先生の本を少し前に読んでいて気になった文章がありますので、なにかヒントになればと思い掲載させていただきます。



『大決意』五井昌久著より抜粋 

P.164(二)

肉体人間というものより

霊的人間のほうが非常に感受性が強い

運命の危険な線もさけることが出来るようになる

守護霊や守護神の注意がすみやかにわかるのです

自然に危機というものをさける力が強くなる

たとえば

放射能というものがある

放射能の波はやはり物質の波ですから

放射能を受けてもあまり感じなくなる

ということになるでしょう

住んでいる次元が違ってくるわけです

肉体にいながらも

自分の住んでいる世界は霊界になってしまう

そういう人がたくさん出れば

不幸がそれだけなくなるのです

・・・・・




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ちょっと頭の整理のために



最近、思い込みということに注目しています。

 

エゴとはなにか?と考えると、わかるようでわからないとある時気がついたことがありました。

 

わかっている方もいらっしゃるとは思いますが、私のわからないなりの考えを書いてみようと思います。

 

エゴについては折に触れて考えてはいるのですが、最近は「思い込みによって全体から区切った自分、もしくはその区切り」と考えています。

 

エゴをうすくするとは、その区切りでもある思い込みに気づいて変えたり無くしていくこと、と考えており、それが人としての成長ともいえるかもしれません。

 

そうする事で自他の境目が減っていき、全体との調和がとれていくイメージです。

 

元々が全体性であるならば、後天的に作り上げた思い込みはあるようで無いものでしょうか。

 

そうした思い込みやそこから生じた葛藤、それらにまつわる因縁や不幸と思われる現象は、自他の区別が取り払われた自らの全体性に気付いたり意識していくことで無くなっていきます。

 

「消えていく姿」を今はそのように考えています。

 

 

最近は施術時にエゴをうすくするようイメージしながらを取り組んでおり、そうした取り組みの結果なのか局所的な筋肉の緊張が緩むことがあるため、体や働きの不調はその方の何がしかの思い込みの現れや反映ではないか、と考えるようになってきました。

 

施術によって身体が緩むことで思い込みがはずれるわけではありませんが、その程度が弱まることはある気がします。

 

そうした弱まった状態からこれまでとは違う考え方や行動に移していくことは、それまでのパターンとは異なる結果を導き出しやすくなるとも考えられます。

 

今までとは違う自分になっていく、思い込みに気付いてエゴを薄くしながら全体性に気づくという方向性において成長する、そのための施術を少しずつでもできるようになっていくことが私の課題だと考えています。

 

施術を通して体に働きかけ、そこから感じたことや伝わってくることをお話し、変わる縁にしていただく。

 

施術の大まかなイメージは、そう捉えていただくといいのではないでしょうか。

 

まだ整理や理解できていないことをお話しすることも時にはありますが、ご自身で考えていただくことがなにより大事ですので、ヒントになることもあると思いその都度お伝えしています。

 


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最近、これまで教えていただいたことが自分の中でつながり始めていたため、数人の患者さんにお話を聞いてもらいながら整理をしていました。

 

こちらでまとめて書こうかとも思いましたが、分けて書いていこうと思います。

 

 

土曜日に体調を崩し昨日も一日へばっていましたが、守護霊様からの肉体改造と思われる私なりの根拠の一つに、仕事に支障をきたさない、ということがあり、今日もある程度回復してしまっています。

 

宇宙全史のBBSに質問されているルポさんは1カ月以上不調があるため、肉体改造といっても加減は人それぞれですね。

 

 

今回体調を崩すことで、ある方からいろいろ教えていただいたことのひとつとして実感したことがありました。

 

「人の調子はいいときばかりではなく、むしろ良くないときのほうが多い」

 

というものです。

 

そして、自分の基準を一番いいところにもってきて、それ以下の状態のとき自分を責める人が多いとも教えていただきました。

 

ということは、バイオリズムの波グラフのようなものを考えていただくと分かりやすいかと思いますが、その頂点は全体の中で数%しか占めておらず、残りの90数%を常に否定する生き方をしていることになります。

 

生きる意欲というのは非常に大事で、子育ての光景をイメージしながら考えてみてください。

 

なにをやっても怒られ、責められ、否定される環境で育つ子供と、とりあえずやったことを認めてもらい、もしくは褒められて育つ子供、どちらが生き生きとするでしょうか。

 

前者は、自分の判断を持たなくして力のあるものに従うか、生きる意欲を無くして死に向かうか、大きく分けるとその2つになっていくようです。

 

周りで人が認めてくれなくても、自分を信じて生きていく、そうすることで自分の人生をよりよく生きていくケースがあると思うのですが、ある段階にいくと非情さというものを実践するためには欠かせないものではないかと想像しています。

 

非情さはおそらく二元性を超えた生き方だと思いますので、今の私には理解できないと考えていますが、ともかく、他の誰も認めてくれなくても最後は自分で自分を信じることが出来るにも関わらず、その自分でさえも否定し責める考え方というのは、改めれるなら改めた方がいいことではないでしょうか。

 

では、自分の基準をバイオリズムの好調期に合わせないでどこに合わせたらいいのか、そう考える方もいるかもしれません。

 

少し下げて中間点位を基準にすればそこまでストイックにはならなくて済みます。

 

しかし、半分は否定しながらということがやめられないかもしれません。

 

そこで「普」という言葉にたどりつきました。

 

「普段」「普通」という言葉に使われているこの文字は「あまねく」という読み方もできます。

 

辞書を引くと、「すべてにわたって、隅々まで」とありました。

 

言ってしまえばなんてことない表現ですが、いい時もわるい時もすべてを認めて生きる、という基準にすればいいのではないか。

 

こういう時もある、でその時できる精いっぱいをやる、でいいんだよ、とある方から教えてもいただきました。

 

普段とか普通という言葉の印象もずいぶん変わってくる気がします。

 

日常こそスペシャルという意味もなんとなくですが、分かりそうな気がしてきました。

 

これしかできなかった、ではなく、ここまではやれた、です。

 

このことは宇宙全史第一巻のカルマの章、P.448にも書かれている

『しかしそこに残る印象は「ここまでやり遂げた」という印象で決して「ここまでやり残した」印象ではないのです。』

に通じることかと思います。

 

 

無理なくそう思えるようになることは、強い思い込み(エゴ)外さないと難しいと思いますが、生きやすい生き方、という大きな基準で考えた時には参考になるかと思います。

 

成長を実感できているとき気分よく過ごせている人は多いはずです。

 

いたずらに責めたり否定しない方法を考えながら生きてみるといいようです。

 

 

 

 

 

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『神様にまかせきる』

『神様にまかせきる』 五井昌久著

P.66

『自分がこうやって生きているように思うけれども、自分が一歩一歩、歩く歩みでさえも、神様がやっている。

 

自分が考える。考える力の原動力は神様なのだ。心臓を動かしているのも、肺臓を動かしているのも、なにもかも、神様の御力がやっているんだ。

 

ということを思わなければいけません。それを想いつづけるんですよ。そうすると、知らないうちに自分の想いが、神様の中に入ってゆく。だからいつも私が言っているように、神様の中に入ってゆくのです。』


先日書いたブログ(http://www.siatu-hajime.com/2015/09/14/普/)の「普」という字の持つ意味への自分なりの理解を促す文章を、上記の中に見つけました。

 

私の中ですっかり抜け落ちていたことが、上の「考える力の原動力は神様なのだ」です。

 

これによって、あまねくいきわたっているもの、隅々まで通っているものが「神様」なのだ、と腑に落ちました。

 

自分なりの気づきなので、一応ここに書き留めておこうと思います。

 

 

お休みの間は最近学んだことを文章にしていろいろ整理しようかと思っていたのですが、ずっと気になっていた五井先生の御本を読むことと、同じく体調を崩して保育園を休んでいた娘の相手をして、あとは体を休めたことでほぼ時間はあっという間に過ぎてしまいました。

 

住居の引っ越し先もとりあえずめどが付きそうです。

 

 

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エゴについて

 

以前書いたかもしれませんが、私が考えるエゴとは、自他を区別する思い込みと、その区別されたもの、です。

 

その区別が為されている場が、神であり、全体性であり、完全性、宇宙、様々な言い方ができるものです。

 

そして私たちがわかっているようでわかっていないのが、思い込みというエゴによって区切ってしまった以上、私たちは自らを部分にしてしまい、不完全なものにしたてあげているにも関わらず、万能で完璧であると思い込もうとする愚か者だ、ということだと考えています。

 

覚醒を果たすとは、そうした思い込みを外して本来の全体性に気づくことではないでしょうか。

 

その方向が地球人類の成長の方向性であり、そちらに向かい変わっていかないと世の中が次元上昇や世界移動して波動が上がっていく中で、現状維持では相対的に下降していくわけですし、形あるものはいずれ壊れていくということもありますので、大半の人類にとって生き残るためのほぼ絶対条件といえると思います。

 

生きる意欲がとても大事になります。

 

気分よく生きられたなら意欲がわきます。

 

ではどうしたら気分よく生きられるかといえば、覚醒を果たす方向性の中で成長を実感することです。

 

いたずらに自他を否定したり責めたりするのは、成長を阻害するばかりか主体性や自由や命を奪うことでもあります。

 

成長とは覚醒を目指すこととした場合、それを阻害しているのは思い込みというエゴであり、エゴを薄くするとは思い込みに気づいてその思い込みを変えたりなくすことです。

 

そうして境目に隙間ができていくことで自他の境目が無いところも現れ、全体と無理なく同調した生き方ができるようになるため、生きやすくなっていくのです。

 

ここで一つ大事なことは、人間一度に考えられることは一つだけ、ということ。

 

掛け持ちしてなにかやっているようでも、それは都度考えることを変えているだけで一度に複数のことを考えられるわけではないのです。

 

成長するにはその一度に一つしか考えられないという能力を使うしかないのですが、実際は過去の自分を責めたり後悔したり、幻想をいだいて未来ばかり夢見ていることが大半を占めています。

 

今に集注して自分がいかに成長できるかに全力を注ぐ、それを地道にこつこつと、というのではないでしょうか。

 

では四六時中思い込みに気づくように取り組まなくてはいけないのか、というとそうではありません。

 

思い込みは当たり前のこととしてあるため、普段はわからないのですが、当たり前のことからハズれた事に出くわすと人は落ち着かなくなります。

 

その時が思い込みに気づくチャンスであり、地道にこつこつと取り組む機会となるのです。

 

過去のことには手が届かない以上、その事に思いを馳せていたところでなにも成長にはつながりません。

 

今に集注して成長を目指すのであれば、過去の苦い経験は忘れることでできるようになるはずです。

 

自身の成長のために重要な今に集注しないで生きようとするということは、現状維持を選ぶことであり、それは先ほども書いたように滅びの道に足を踏み入れていくことになります。

 

自分よりものをわかっている人は成長を促してくれますが、そういう人の話を聞く気がないということも現状維持を選ぶことになり、その道は自らが選択したのであり、自己責任は厳密にその方にその結果をもたらすことになるのでしょう。

 

同情される人が相手を引き込むということも、結局は変わりたくない、現状維持がいい、成長なんかしたくない、だからその私を満足させて肯定して安心させてくれないと私は不愉快なの、という自分本位の勝手な都合を主張しているところにはまりこんでいくということになるのだと思います。

 

それが間違っているとわかっていて、自分の信じる道を差し置いて相手と同じレベルまで下がるわけですから、降りた差額分はごっそり陰始達にもっていかれ、自分もって相手も成長することなく落ちていくのはもちろん、主体性を放棄して自分を無くして相手に合わせているために生贄となってしまうことすらあるわけです。

 

いい人ほど同情によって落ちていく理由がこうしたことだと考えており、皆さんにぜひ考えていただきたいと思います。

 

まだまだ書き足りませんが、長くなったので一旦ここまでとします。

 

ありがとうございました。




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これもメモとして

人との関わりについて身近で考える機会をいただいたのですが、他者に対しても自分に対しても、その方に向ける厳しさや優しさは、その人の生きる意欲を引き出すならばいいでしょう。


しかし、意欲を損なうような、生きる力を奪うようなものは、やはりよくよく考えなくてはいけないように思います。


例え自分本位のものであったとしても、それらを向けられた人に生きる意欲がわくのであれば、長い目で見た時に成長の原動力となるかもしれず、その人にとっては佳しとなるものだと思います。




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学びの整理として

 

このところの学びの整理として、備忘録として途中までのものを残しておきます。

 

 

 

生きることにおいて、よりよく生きるということは、生きやすさが増す生き方をしているということ。

 

それは成長するということでもあり、では成長の方向性はどこに向くかと考えると、エゴを薄くして全体との調和が成される方向と考えてみればいい。

 

なぜそちらを成長の方向性として求めるのか。

 

それは元々が全体性であり、そこに部分、局所という歪みを作ったから。

 

宇宙は完璧であるとは、常に歪みは解消され続けているということ。

 

その宇宙という全体の働きが、エゴで囲い込んだ中にもあり、それを小宇宙と呼ぶのかもしれない。

 

小宇宙はエゴにより歪みを生じているので、その歪みを解消するために取り組むことが、カ

ルマの解消とよばれるものである。

 

神は万物の創造主であるということを考えると、自然は神が作ったものであり、神のエネルギーがそのまま現れているものを自然と呼んでいる。

 

その自然を歪めたものがエゴとしての人間であり、陰始に組する自然の一部である。

 

エゴの自分がより神に委ねる生き方をしようとするならば、神に近づく必要がある。

 

全託となれば、一致しなくては成り立たない。

 

どうすれば一致するか。

 

それは神の行い、想いを真似ること。

 

自分より上質な生き方を学ぶには、まずは真似ること。

 

神様は大常識人なので、神様を真似て、神様が考えていることまでわかるようになれば、全託により一層近づいたと言えるのではないか。

 

その真似を深めて隅々まで行き渡らせることで、神と一致する。

 

お祈りはその真似ることにあたる。

 

全体性という神への回帰を求めるエゴに覆われた局所の神性は、その求める感覚として故郷

への郷愁、母性への想いを拠り所としている。

 

 

 

以上、理解や整理ができていないことも点在していますが、読んだ方の考えるきっかけになることもある気がするため掲載しておきます。


 

 

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質問しました


ご回答いただけるかわかりませんが、先日の「学びの整理として」の内容を加筆修正してBBSにて質問いたしました。


前回同様、考えるきっかけにもなると思いますので、そのまま掲載いたします。





① 虚空蔵55様、みわ様 


いつもご指導いただきありがとうございます。

 

最近、進化の方向性ということについて考えていたのですが、曖昧なところがあり考えを整理してみました。

 

ご指導いただけるようでしたら、よろしくお願いいたします。

 

 

私たちには選択の自由がある中で、今の地球においては大きくわけて2つの方向性があると考えています。

 

一つはアセンション、もう一つはディセンションです。

 

エゴを薄くして、より全体との調和をはかる方向性がアセンションで、より生きやすい方向性ともいえると思います。

 

これは地球に残る、または地球を卒業する魂だと考えています。

 

一方、ディセンションに関しては、より生きづらい方向性を選択しています。

 

この生きやすさ、生きづらさ、というのは、例えば人間が持っている能力をより多く使えるようになるか、より制限して今より少ない能力で生きていくかとも言えると思います。

 

アセンション、ディセンションした先のそれぞれの世界に生きる人間のDNAの稼働率がプラス数%になるかマイナス数%になるか、という考え方でもいいかもしれません。

 

生きることにおいて、よりよく生きるということは、生きやすさが増す生き方をしているということだと思います。

 

それは成長するということでもあり、では成長の方向性はどこに向くかと考えると、エゴを薄くして全体との調和が成される方向と考えています。

 

なぜそちらを成長の方向性として求めるのか。

 

それは元々が意識の世界では完璧である全体性であり、そこに思い込みなどによるエゴによって囲い込んだ部分、局所という歪みを作ったため、歪み(エゴ、カルマなど)を解消して完璧な世界を保とうとする働きがあるからです。

 

宇宙は完璧であるとは、常に歪みは解消され続けているということだと考えています。

 

その宇宙という全体の働きがエゴで囲い込んだ中にも部分としてあり、それを小宇宙と呼ぶのかもしれません。

 

小宇宙は大宇宙に歪みを生じた状態と考えられるので、その歪みを解消するために取り組むことが、カルマの解消とよばれるものでしょうか。

 

神は万物の創造主であるということを考えると、自然は神が作ったものであり、神のエネルギーがそのまま純粋に現れているものを自然と呼んでいるのだと思います。

 

その自然を歪めたものがエゴとしての人間であり、陰始に組する自然の一部でしょうか。

 

そう考えると、エゴを無くす方向性というのは、世界が完璧であるための歪みを解消する働きであり、自然なことと考えやすくなります。

 

普段の生活の中で出掛けたりしたとき、自然に触れるといっても違和感を感じることがありますが、森や川があるからいいわけではなく、本来の純粋な宇宙のエネルギーを何らかの形で歪められている場合は、あまりいい環境ではないと感じているのかもしれません。

 

これからの地球に残る生き方は、地球と調和した生き方ができるかどうかだと思うのですが、エゴの自分がより地球に委ねる生き方をしようとするならば、より自然な生き方が必要になります。

 

それがエゴを薄くした意識からの思い、本心に従って生きる生き方だと思います。

 

自然は神様のエネルギーの現れですから、より自然な生き方というのは、エゴより神様に近い生き方になっていくということになるのでしょうか。

 

全託となると、一致しなくては成り立ちません。

 

どうすれば一致するか考えてみると、神様の行い、想いをまずは真似ることだと思います。

 

技術の習得について考えた時、初心者や未熟な人は、より上手な人の技術を手本として技術習得に取り組みます。

 

よりよい生き方をされている方がいるならば、そうした方が見本になります。

 

できること、できそうなこと、できないこと、を知り、いまできること、できそうなことに取り組むことでできないことを減らしていくことが成長の一つのあり方だと思いますので、その取り組み方の最たるものが五井先生の世界平和の祈りだと考えるようになりました。

 

お祈りすることで、未熟な私が神様の想いに近づいていく、そして全託できる道筋をつけてくださっている気がいたします。

 

ですから、いまの自分より上質な生き方を学ぶには、まずはより良い生き方をされている方を真似ることであり、お祈りすることです。

 

神様は私の理解できないような範囲まで物事をよくわかっているため、人間であれば当たり前のことが当たり前にできる一番常識をわきまえた存在だとも私は考えています。

 

神様を手本とし、日常生活では日々目の前のことをキチンと取り組み、神様が考えていることまでわかるようになれたならば、全託により一層近づいたと言えるのではないかと思いました。

 

その真似を深めて隅々まで行き渡らせることで、神様と一致していく気がします。

 

全体性への回帰を求めるエゴに覆われた私たちの本心は、その回帰の方向性の手がかりでもある求める感覚として、故郷への郷愁、母性への想いを拠り所としているのだと思います。

 

ここが曖昧に感じているところでもあります。

 

以上、理解や整理ができていないこともありますが書かせていただきました。

 

現状の理解の確認をしたいという個人的な理由ですが、なにかご指導いただけることがございましたら、よろしくお願いいたします。

 

理解の難しさ、言葉で表現して伝える大変さを日々感じています。

 

わかりづらい言い回しは私の理解が足りていないゆえだと思いますのでご迷惑をおかけいたします。

 

よろしくお願いいたします。




② 虚空蔵55様、みわ様

 

先日はやや長めの文にてこちらにご質問させていただきました。

 

開業以来こちらを通して来て頂いた皆様とお話するにつれ、私の今の段階や理解度など、なかなか足りていないことを折に触れて実感するようになりました。

 

わからないなりに考えていることではありましたが、こちらは真理に照らし合わせてご指導いただける貴重な場でもありますので、未熟なりの学びを得ていきたいと改めて考え、現状の把握と課題を自覚するため、ご質問させていただきました。

 

自分なりにこの一年で成長させていただけた実感がある一方、こちらで教えていただけていることの難しさも実感する機会が増えた気がいたします。

 

こちらで教えていただけていることを大まかにでもよりはっきりと全体像がつかめれば、今よりも理解が深まるのではないかと考え、書かせていただいた次第です。

 

私もそうですが、いらしてくださる方たちも理解が追いつかない事が多いようですので、少しでも理解して私なりの言葉で分かりやすく伝えていけるようになれたら、と最近は考えるようになりました。

 

因果応報が早くなる、というお話でしたので、理解した分だけよくなる、と考えています。

 

関わる方に少しでもいい理解を得てもらえたら、やはり嬉しいです。

 

自分に限らずより多くの方が陰始に引きずられないためにも、できることの一つとして自分の理解を深めることは大事であると考えています。

 

以前は人に話す前提ではなかったので、わかったつもりで済ませていたことが多々あることに気づかされています。

 

いらしていただいた方たちになにかを伝えようとした時、細かな事柄一つ一つをわかっていないと話ができないことも実感していることです。

 

改めて読み返すようにいたします。

 

先日の質問で、なにか言葉が足りなかった気がしたため送らせでいただきました。




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ブーっ!

タイトルと写真は適当に。



以下、教えていただいたことのメモ書きです。




・自分の価値観で生きているか?


・善悪と思い込みはリンクしている


・思い込みをエゴとするなら、善悪をまず理解しないとエゴはわからない


・人の普段の考えは、人から教わった価値観を当然と思いこんでいる


・主に親から教わったもので善悪を決めている


・つまり自分の価値観ではない


・自分の価値観で生きているか??



以上、考えるきっかけにしてみてください。

※「善・悪」について


私もまだ理解しきれていませんが、おそらく善悪についての内容は流し読みされている方が多いと思います。


「人間知で思いつくのはそれくらい」ということは、人間で考えられる限界に近い内容でもあるということではないでしょうか。


まずはそこまでは理解しておかないと、と感じます。


私も教えていただいた内容ですので学んでいる途中です。


「エゴを薄くする」ということ、「自分に向き合う」ということ、それぞれこういうことから取り組まないとなかなか前に進みませんし、こうしたことがそうした取り組みそのものでもあると思っています。


自分の価値観を折に触れてチェックするようにされると、いろいろ生きやすさが増す実感が得られるとおもいますので、気づいた方は気づいたところから価値観の優先順位を入れ替ええていかれてはどうでしょうか。


因果応報が早くなると教えていただいていますので、行動に移した分だけ変わりますし、先延ばしにした分だけ先に延びていきます。


ある程度区切りも明言されている中で先送りするということは、そういう選択をしたということだと思います。


まだこういうことを書くあたりが、自由を認める難しさですね・・・観照者とは程遠い感じです。




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お祈りについて


さきほどある方とお話していて、以前私の守護霊さんから


『実感がないのがお祈りなんだよ』


と言われたとのことでした。


ほぼ覚えておらず、「あぁ・・」という感じです。



御利益のあるお祈りはある意味危険で見返りを求められることもありますが、上記のようなお祈りだと「気がついたらよくなっていた」という感じで、自力を活かしてのよい変化は無理もなくて負荷も少なく済みます。



最近ご報告受けた方たちに共通しているのが、自分の変化よりも周りの方たちの変化です。


荒い気性の方が穏やかになってきたり、家族の間柄がよくなっていたり、自分に関わる身の回りでのそうした変化に気づかれたようでした。



一緒に居る方が落ち込んでいたりイライラしているだけでこちらもなんだかすっきりしませんが、逆もしかり、こちらがぶれていると周りの人もすっきりしません。


だとすると、自分が変われば周りも少なからず変わるわけで、自分の取り組みが及ぼす範囲が自分であると考えてみると、自分のやったことはきちんと結果が出ていると考えられるのではないでしょうか。


なかなか変わらない、と焦ってしまう前に周りを一度見渡してみるといいかもしれません。



人によって違うことばかりなので、ひとくくりでこうですよ、とは言えませんが、やはり目に見えた実感というものがあれば、気分が違いますから、一つ視点を変えたり視野を広げることで生きやすくなるかもしれないと思ってもらえたらいいのではないでしょうか。



余談ですが、私が最近いただいた課題です。


勝手な理想像をつくりあげ、それを例えば着ぐるみのように関係ない人に被せてしまい、中の人を無視してその着ぐるみの印象通りにいかないことに対して腹を立て続ける。


その理想像と中身は別物です。


そもそもその理想像は実現可能なのか?


前提として考えていることは本当に信じていいものなのか?


男性とは、女性とは、父とは、母とは、その価値観はあなたの考えでしょうか?


それにそぐわないことに腹を立てる理由は?


 

エゴの理解に深くかかわる内容だと思います。


理解が進めば、必要な方にお話できるかと思います。



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エゴについて、メモ


全体を見渡したうえで「理論」「理屈」を考えるのであれば、全体の働きを知ることはできるし、バランスもとれる。

 

 

しかし、ある部分だけを見て、その枠組みの中だけで同じことをやると、足りないために歪みが生じる。

 

 

その歪みをどれだけ正当化しようとしても、歪みが正されないばかりか、もっとひどくなることさえある。

 

 

「死」「見えない世界」そうしたものをまずは全体の一つとして考えないと、片手落ち。

 

 

「エゴでコントロールできるところ」「エゴでコントロールできないところ」、この組み合わせでも全体を考えてみるといい。

 

 

エゴのやること・考えることだから完壁ではないが、それを完璧と思いこむところがエゴでもある。

 

 

エゴ(不完全さ)ではエゴ(不完全さ)を理解できない。

 

 

エゴ(この次元をこえることのできないもの)を超えたところ、エゴが理解できないところ、そうしたところから物を考えると見えてくるものがある。

 

 

エゴで考え続けている限りは、考えが足りない。

 

 

守護の御神霊たちの御指導、宇宙全史で開示されている情報などは、エゴを超えたところのお話。


 

お祈り、エゴを超えた全体の働きを形にしたもの。

 

 

それらに限らず、そうしたものはあちこちに見え隠れしているのかもしれないが、多くのウソやごまかしや意味のないものなどに紛れているため、それを探し出すための感性や知識、経験が必要となる。

 

 

世に出回っている情報について、まったくウソのないものはまずありえない。

 

 

ウソや矛盾を見出し、真実や有益な情報を拾い集めて生きていく。

 

 

そのためにも勉強が大事。

 

 

学びが大事。

 

 

自他のまちがっていることや失敗を非難したり責めても意味がない。

 

 

見つけ出すことが、自身の成長につながる。

 

 

生きやすくなる。

 

 

大事なものを見つけるために、その目が自分の目であるのか、一度よく考えなくてはいけない。

 

 

誰かの価値基準でものを見ているから、考えや行動や結果にズレが生じて生きづらい、歪みが生じる。

 

 

「本来、人は自由に生きていい」と言われている。

 

 

ということは、自分の見たこと感じたことを信じて、自分のやりたいようにやり、考えたいように考え、生きたいように生きれば、生きやすさを感じ自由に生きられるということ。

 

 

しかし、実際は生きたいように生きると、生きづらい。

 

 

それはなぜか?

 

 

自他を否定したり責めるということが、お互いの自由を認めない生き方であるため、そうしたことが一因ではある。

 

 

それとは別に、信じていることが、自分の自由につながる見方で見れていないから、とも考えられる。

 

 

その信じているものが、自分の価値観、ものの見方ではないからではないか?

 

 

いま自分が信じているものは、他人の価値観、考え方ではないか?

 

 

親から、先祖から、社会から、代々受け継がれてきた「思い込ませる」という(BBSでいうところの)黒魔術によるものではないのか?

 

 

もしかしたら、物心ついてから一度も「自分」の生き方をしたことがないのではないか?

 

 

「自由に生きていい」

 

 

この一言をよくよく考えてみる必要がある。

 

 


 

 

以上、備忘録です。

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濃い時間


このところ、自分のエゴについて考える機会をいただいており、今日は特にその内容が濃かったです。


一番見たくない、気づきたくない、そういう思い込みがあることがわかります。


意識を向けていると苦しくなるので、実感としてわかります。


いろいろ言い訳を考えたり、話をすり替えてはぐらかしたり、自分で無意識にやることなのでちょっとびっくりしてしまいます。


そんなことを感じて一日が終わりました。


エゴを実体験している最中です。




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キズについて

 

 

 

亀裂や穴のようなキズは、いつどのようにしてついたのでしょうか?

 

 

 

その疑問に対する答えが以下のものです。

 

 

 

 

 

キズはエゴが形成され始めて間もなくつけられることが多い。

 

 

 

ちょっとキズをつけてしまえば、それを隠すように新たなエゴが覆いかぶさっていき、小さなキズは隠れてしまう。

 

 

 

すると、キズがどこにあるかわからなくなり、あとは歪んだエネルギーを注ぎ込んでいけば、そのキズを元にひずみが勝手に大きくなっていき、キズが穴になっていくことでエネルギーの搾取構造をエゴが勝手に作り上げてしまう。

 

 

 

キズはエゴにつけられる。

 

 

 

この事に気づけるかどうか。

 

 

 

心や魂が傷ついたと感じる時、実はだいたいエゴが傷ついている。

 

 

 

しかし、自分が傷ついたと思えばエゴの傷は大きく深くなるため、搾取する側からすれば思い通りになる。

 

 

 

また傷をつけたり深めたりするには、身近な存在のエゴに加害させる方がより効果的だ。

 

 

 

エゴにどこまで意識的でいられるか、それが今のあなた達の課題だよ。

 

 

 

 

 

 

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伝 新年の言葉

 

 

先日のブログで少し触れましたが、元旦に私に向けての言葉がありました。

 

以下がその内容です。

 

 

 

万物の営みからの実りを叡智として受け取る

  

それがあなたのつとめです

 

 

  

今生果たせる課題は限られていますが

 

たゆみなく続けることで開かれる道筋があることを信じて

 

祈りと共にありなさい

 

 

 

審神者(さにわ)をきちんとすることで

 

あなたのおろす言霊は

 

より精度を増し

 

奥行きとひろがりと共に

 

人々の心のみならず

 

あなた自身の魂の源泉に通じる道筋を明るく照らし出してくれるでしょう

 

 

 

夢をもって生きるのではなく

 

志を強くすることで得られる活力こそが

 

真実のあなたの道となります

 

 

 

 

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ブログ「伝」の補足

 

今日は今シーズン初となる本格的な降雪があり、冬らしい景色の中で寒さに震えながらバイクを運転し、いま足の指がしもやけになったような痒さがあります。

 

寒かったです。

 

先日いらし方が北欧にも住んでいたことがあり、現地での生活のお話をしてくださったことがありました。

 

その内容は、冬場は-50℃になることもあると記憶していますが、そういう地域では外出時に外で足を捻挫などするとそこから動けなくなるため凍死することがあるのだとか。

 

寒さの怖さを一つ知りました。

 

 

 

余談はさておき、タイトルにもあったブログの補足です。

 

最初は私個人に向けてかと思いましたが、内容がわかるにつれ患者さんとお話を重ねるごとに感じたのが、みなさんの中にも必要な方がいそうだ、ということでした。

 

興味のある方はご自分なりに考えてみるのもいいかもしれませんが、私が感じた解釈は大筋でこのようなものになります。

 

年明けに掲載した「伝 新年の言葉」について、私の解釈を以下にのせておきます。

 

 

 

 

「万物の営みからの実りを叡智として受け取る   

それがあなたのつとめです」

 

全体の働きの中で、自分のあらゆることを全体性と関連付けて考え理解していくこと

それが今あなたがやるべきことです

 

 

  

「今生果たせる課題は限られていますが

たゆみなく続けることで開かれる道筋があることを信じて

祈りと共にありなさい

 

エゴによって制限がある状態では、できることも限定されてしまいますが

あきらめないで取り組み続けることで、新たな可能性がでてくることを信じ

(エゴを薄くするためにも、全体性の働きを現している)お祈りをつづけるといいですよ

 

 

 

「審神者(さにわ)をきちんとすることで

あなたのおろす言霊は

より精度を増し

奥行きとひろがりと共に

人々の心のみならず

あなた自身の魂の源泉に通じる道筋を明るく照らし出してくれるでしょう

 

エゴ(自分のやったこと)をきちんとチェック、確認することで

やることが

よりよくなっていき

エネルギーが増していくと共に

関わる人達に対してだけでなく

自分自身についても本心に通じやすくしてくれますよ

 

 

 

夢をもって生きるのではなく

志を強くすることで得られる活力こそが

真実のあなたの道となります

 

先のことばかり、耳障りのいい話ばかりに目を奪われるのではなく

「よりよく生きること」が一番大事なんだと

強い気持ちで目の前の物事に向き合っていくことでわき出る意欲こそが

あなたの自信の根拠となっていきます

 

 

 

以上です。

 

個別にお話しているとまた微妙に話の内容が変わりますので、わからないことがあればいらしていただいた時にお尋ねください。

 

先週からエゴとチャクラの相関関係についても少し気づかされたことがあり、それはもう少し整理出来たら書くかもしれません。

 

 

 

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エゴを薄くすることについて

 

「エゴを薄くする」ということについて、教えていただいたことでいま考えていることの一部を。

 

 

「生きやすくなるように、考え方を変えていくということ」

 

 

最近考える機会が多いのですが、エゴを薄くする、思い込みや考え方を変えていく、これらはやるべきことの中では優先順位がかなり高いと前以上に考えるようになってきました。

 

そのため、施術時間の半分程をそうしたお話にあてる機会が増えてきています。

 

エゴの好き勝手にさせているのは、なにも変える取り組みをしない肉体や、手入れをしない竹藪のようなものかもしれません。

 

体については、思うように動かしたければトレーニングを積んで無意識の部分を減らしていくことが大事ですし、好き放題にしていればだらしない体になることもあります。

 

竹については、「自然のままが一番」といって、人の手を加えない竹は雑然とした竹藪でしかありませんが、手を加えてよりよいものにしていくと竹林とよばれるようになり、おそらくそうしたところにはよりよい竹がはえてくるのではないでしょうか。

 

人のエゴも好き勝手にさせると雑然とするのだと思いますが、手をかけること(思い込み・考え方を変える)で好き放題にならなくなり、扱いやすいものになっていくように思えます。

 

竹藪と竹林だと、やはり風通しも違いますし、雰囲気もよくなります。

 

同様に、エゴについても(エゴに気づいて)手入れするという考え方を意識していただくことで、全体性との風通しをよくしていける可能性が高まると思います

 

わかっていないこと、実践までいたっていないこともたくさんあるので、私も確認しながらお話していることではあります。

 

ただ、それぞれのつながりを感じながら考えられるようになってきたこともあり、それらはここに書いたことと関連させて、施術のカウンセリング時にお話させていただいています。

 

私自身は考えるということを、これまでの人生の大半で放棄してきました。

 

大事なことをたくさん教えていただく機会に恵まれていますので、知識を伝えるにとどまらないよう、まずは自分が理解し、いらしていただいた方には少しでも噛み砕いて伝えていきたいと考えています。

 

限られた時間ですから、できるだけ効率的に理解していただきたいですし、効果を感じていただけるとうれしいです。

 

 

 

余談ですが、先週は不思議な雲を見ました。

 

土曜にお店を閉めてバイクで移動していると、ふと見上げた空にほぼ日本列島そのままの形をした雲が浮かんでいました。

 

北海道から本州はもちろん、四国に九州まであり、沖縄は確認し忘れましたが、形もほぼそのままです。

 

大通りを走行している時でしたので、少しバイクを走らせていざ写メを撮ろうとすると、すでに形は変わり無くなってしまっていました。

 

はっきりしないメッセージはあったものの、エゴもまじりきちんととれていなかったため掲載しませんが、なんともびっくりです。

 

 

 

写真は息子作、「大怪獣ゴジラ」です。

 

 

 

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もっとシンプルに

私の頭の整理もあるので、今回もエゴについてです。

 

エゴについて教えてもらい、自身でも考えられるようになってきて感じたことがありました。

 

タイトル通りですが、

 

「もっとシンプルに捉えればいいんだ」

 

ということです。

 

「複雑に」「難しく」、そういう癖が染み付いているのが徐々にわかってきています。

 

全体性からエゴの自分をみると、限られたなかで物事を完璧に扱おうとしてしまい、窮屈な発想で複雑にすることで解決した気になろうとする、そんなエゴの傾向が見え隠れします。

 

「できない」「わからない」、そう認めることは全体性を少しでも理解して初めて口にできることなのかもしれません。

 

より大きな捉え方をしていくことで、無理が減ってくる感じがします。

 

見えているまま、感じているまま、思うまま、あるがままを認められるようになったら、エゴについての理解も多少は深まりますし、振り回されることもかなり減ると信じ考えています。

 

 

 

 

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考えるヒントになれば

 

エゴを観察するヒントになると思うのですが、よく占いなどで個性や運命を体系化しているものがあります。

 

そうしたものはおそらく、エゴの分類分けにもなっているのだと思います。

 

私が施術に関して勉強させていただいているものにも、そのようなものがあります。

 

それらについて以前はよくわからなかったのですが、エゴの分類分けと考えると、なんとなく見えてくるものがあります。

 

判断材料としては、干支や血液型、生まれた日時、体型、動作など様々あります。

 

しかし、実際の人の多様さをみると、ちょっとかじった程度ではそんな単純に分けられるはずもありません。

 

ただ、要素としてそうしたものがあるとしたなら、それら要素が単独にあるのではなく、混ざり合っているのだとわかります。

 

比率が高いものが色濃くその人の個性の中心となり、あとは複数種類がまだらに構成要素となってその人の個性を彩っています。

 

それが多様さになっているのだと思います。

 

また、全体が変化し続けることを考えたなら、他からの影響や時期によってその比率が変わることも考えられます。

 

さらには他の要因との絡みもでてきて、複雑に多様化されたエゴが、DNAのその後の発露の仕方を特定していくのではないでしょうか。

 

もしくは、DNAがエゴを特定しているのか。

 

DNAもまたそのすべてを活用しているわけではありませんので、今後の多様性の幅が広がる可能性は未知数になります。

 

自分のエゴについて考えようと思ってもなかなか見えてこないのであれば(隠れているので)、そうした体系化されたものをヒントに探せるのではないでしょうか、という提案でした。

 

なにかよくわからない宣伝のようになってしまいましたね。

 

エゴで書いた文章ですので、私のエゴの含有率を考慮しながら読むようにしてみてください。

 

 

写真は息子作「ゲゲゲの鬼太郎」です。

 

原作よりも鬼太郎の妖怪感がアップしているところが気に入っています。

 

 

 

 

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鵜呑み

最近は、鵜呑みにしないよう心がけているつもりです

 

長年の癖なので、気が付くと何も考えずに信じてしまうことがよくあるからです。

 

注意して物事を見るようにすると気が付けることもあるので、そういう時は

 

「これまでよく考えずに生きてきたな・・・」

 

と軽く凹み、

 

「いや、気づけるような成長をしたんだ」

 

そう切り替えています。

 

 

 

エゴについて知ることで「エゴを踏まえた学び方」ということが徐々にわかってきています。

 

エゴをあまり「意識しない」「考慮しない」物事の受け取り方が、鵜呑みといえるかもしれません。

 

効率的に学ぶためにも、また教えていただく方に対するマナーとしても、エゴの影響というものを考慮することは大事だと思っています。

 

意識するようになってから、それまでとは見え方が確かに変わってきたからです。

 

こういうことがわかってくると、けっこう楽しいですね。

 

 

 

写真は息子作、「レンジャーと敵」だそうです。

 

どちらかというと、憎めない悪友二人、という感じがしないでもないです。

 

 

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良いものは、良い

 

先日、ある方とお話していて気づいた自分の思い込みがあります。

 

「エゴのやることはわるいことに違いない」

 

これまでいろいろ教えていただいて、理屈は分かってきていたつもりでしたが、本心とエゴの見極めについて考えていたところ、そのことに気づかされました。

 

 

 

エゴであっても、良い考え方をすることがあります。

 

 

 

考えてみたら当たり前で、覚醒しているわけではないので、これまでほぼエゴだけで生きてきたはずです。

 

にもかかわらず、以前よりはマシな生き方ができているのは、エゴだけとは言いませんが、それがいい方に働いたからと考えてもおかしくはないな、と。

 

ところが、これまでの思い込みだと、エゴを否定してしまっていました。

 

目的がよりよく生きること、だった場合、エゴであっても内容を検証してみて、納得できるものなら、無理に本心と区別する必要はないんですね。

 

まだまだ理解が浅いことを実感しました。

 

それでも、そのことがわかっただけでもかなり嬉しかったです。

 

 

新刊に書かれていた空海の「反省」は、「良いエゴ」のいい例ではないでしょうか。

 

習慣化させて無駄なエネルギーを浪費しない、というエゴの傾向を上手に利用し、反省を習慣化することで、エゴを使って成長していくことが出来るということを実証してくださっていると思います。

 

 

 

少しそれますが、求聞持法について。

 

それ自体はよくできた道具のように考えています。

使い手の境涯を反映させてくれるもので、良くできた超一級品の包丁で例えて考えてみました。

 

超一流の技術を持つ方が使えば、その技術や才能を遺憾なく発揮させて超一流の料理を生み出しますし、私が使えば料理は下手なりに仕上げられる程度のもので、むしろ手を切りかねないよく切れる包丁となり、狂気を帯びた方が使えば凶器にもなりうる、そんなイメージです。

 

 

 

なんにせよ、そうしたいい習慣を身につけていくことは、成長を求める生き方には非常に有意義なことなんだと思います。

 

 

薄まってきてはいますが、私には話を鵜呑みにする性分があります。

 

それは、だれかを特別視することでその方の発言等をすべて正しいと思いこんでしまうため、その内容を観察して検証するような考え方をしません。

 

そういうことにはきちんと頭を使っていかないと、誤った情報や考え方により翻弄されていきます。

 

反省する、ということを身につけていくには、やはり考えるということが大事になりますね。

 

 

 

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意思の強さ

 

最近考えていて分かったことです。

 

意志の強い人は、常日頃から頭を使ってよく考えているんですね。

 

それに付随していろいろお話を聞く機会もあり、いま、考えるということが楽しくなってきています。

 

 

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情報の読み解き方

 

私も教えていただいたことのなので身につけている途中ということもあり、きちんとできていることではないことを、まず先にお伝えしておきます。

 

 

 

以前も少し書いたかもしれませんが、エゴを踏まえて情報を読み解くようにすると、あまり勘違いや間違った情報の解釈にはならないのではないでしょうか。

 

人それぞれに様々なエゴという得体のしれないものがありますが、その濃淡や偏り具合などの影響で、情報を受け取る際にも、発信する際にも、その情報はなにかしら歪められていきます。

 

例えば、100%の純度の情報が伝わってきたとして、意識の中での歪んだエゴの主導権率が40%だった場合、その方の受け取る情報は60%の純度になります。

 

それをまた他の人に伝えると、さらに歪みます。

 

 

 

情報を流す側に意図があり、その人の都合で情報を発信されていたとしたら、真理・真実とよべるような状態からは程遠い状態になっていると考えられます。

 

ウソが混じった情報になっている、ということです。

 

ですから、そういうのはなんとなく雰囲気で感じることもあって、うさん臭くおもうこともあります。

 

結果、「信じられない」という状態に陥り、陰謀論などに振り回されてしまうのかな、とも思うのですが、これだと「否定して見ないようにする」、「近づかないようにする」、「なるべく自分は安全なところで安心して暮らしたいから、考えないようにして自分の理想を追いかける」ということになるのではないでしょうか。

 

 

 

それはそれでいいのですが、エゴを前提に考えてみると、例で挙げたケースでは40%は確かに歪んだ情報かもしれませんが、残り60%は真っ当な情報なのですから、ここを見るようにしていくと物事のとらえ方が変わると思っています。

 

(これができていなかったと実感していますし、多くの方に見受けられる傾向のようにも思います。)

 

考え方を変える、エゴを薄くする、ということをするわけです。

 

 

 

実際世の中に出回っている情報については、どこまでどうなのかわかりません。

 

ですから、丁寧に一つずつ読み解いていくことで、勘を養うというのでしょうか、大事なことのかけらを拾い集めていくのがいいようです。

 

 

 

否定する、ということは、無いものにしようとすることです。

 

しかし、形は変われど、存在しているものを無くすことはできませんので、できないことをやり続けるようなことは無意味ですから、否定するのではなくまずは存在を認め、それをどう使うか、どう対処するか考える、ということが現実的な考え方になるのではないでしょうか。

 

 

 

もしかしたら1%しか真実は無いかもしれません。

 

しかし、どっぷりつかったこの世界から抜け出るためには、そのかすかなかけらを拾い集めて自分の知恵に変えていくことでしか、方法はないようにも思えます。

 

また1%が分かれば、それが信じる根拠ともなり、鵜呑みにして人に支配されたり、依存して責任を人に押し付けるようなことはしなくなります。

 

 

 

自分のエゴを認められるようになると、他人のエゴもわかるようになります。

 

エゴを認めるようになると、完ぺきにできなくてもしょうがない、と考えられるようになります。

 

私の場合はそこから、できる範囲で精いっぱいやる、ということの意味も徐々にわかってきました。

 

すると、否定する必要がないことがわかってきますし、ありのままの自分を徐々に受け入れていけるようになると思います。

 

ありのままの自分であれば、楽に生きられます。

 

 

 

私は、こんな感じで情報を読み解く際に、考えるようにしています。

 

 

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好きでやっていることだから否定しない

 

 

行動にはその人が一番大事だと思うことがベースにあり、行動にはそれが現れています。

 

「一番大事」は、「一番自分にとって利がある」ということ。

 

本心であれエゴであれ、大事だから「やりたい」という気持ちがあるから行動に移せるわけですから、それは好きでやっているといえるわけです。

 

このことを以前から何人かの方に教えられてきました。

 

「好きでやっていることだから」「俺の人生じゃないから」「本人の自由だから」など、言い回しは様々ですが、それがようやく自分の中で一つ噛み砕けた感じです。

 

 

 

以下も教えられてきたことの確認を兼ねて書きます。

 

 

 

日常生活では人は自身の価値観に従って行動しており、それを他者が否定して他者の思いを押し付けるのは、その人の「一番」にとって変わろうとすることになるわけです。

 

それが例えどんなに効率が悪く愚かな行為に見えても、です。

 

自分(主体性)を無くさせ、その相手を支配しようとしているともいえます。

 

相手が変わりたいと思い人に尋ねた時には、それが「人に聞いて自分をよくするために変わりたい」が一番に来たことになっていれば、それに応えることは支配関係の構築にはならないと思います。

 

そうすれば、否定をしないで相手の自由な生き方を認めた行為になるのではないでしょうか。

 

 

 

違うケースもあります。

 

それはブログ「情報の読み解き方」に紫陽花さんがコメントしてくださったように、卑下して自分の一番を差し出すケースです。

 

支配される方が自分の得になると判断し、やはりこちらも好きでやっています。

 

ですから、正論などで諭しても、それはご本人が自分で気づいたり、変わりたいと思って人に尋ねようとしない限りは、あまり意味をなさないかもしれません。

 

よかれと思っても押し付けになるならば、相手の意思で尋ねてくるまで「待つ」ことをまずは自身の勉強と思って過ごすほうがよさそうですね。

 

私の取り組み中の課題でもあります。

 

 

 

この待つという事には相当な覚悟を要し、同情や非情さについての理解も欠かせませんので、ある程度時間をかけてじっくりやるほうがいいテーマだと思います。

 

取り組む方は早めに始めるといいと思いますが、やはり自分のタイミングがありますので、その気になったら、ということがやはり大事にはなるのではないでしょうか。

 

 

 

「自由な生き方」に関することなので、この先どこかで必要になると思っています。

 

 

 

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「情報の読み解き方」の補足

 

 

 

情報の読み解き方」の補足です。

 

 

読み解く際、相手のフィルターはもちろんですが、こちらのエゴのフィルターを忘れてはいけません。

 

 

勘違い、思い違い、そうしたことの原因でもあります。

 

 

前回例として60%の純度をだしましたが、あれは目の前に現れた時点での状態であり、それをこちらがエゴを通して受け取ったり、頭に入れた時点で、更に歪みます。

 

 

なぜなら、受け取った60%に対してこちらが純度30%だったら、18%程度しか理解できていないことになるからです。

 

 

ですから、

 

 

「なに間違ったこと言ってるんだこの人は」

 

 

「わけわかんない」

 

 

と失敗を責めたり相手を否定するのではなく、この18%から100%にどう近づいていけるか考えた方が自分が成長するから大事だよね、と考えるようにしています。

 

 

 

 

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備忘録(エゴなど)

整理中のことをすこしまとめた状態で残しておきたいので、備忘録として掲載しておきます。

 

メモですね。

  

全体像としてはまだまだで、とりあえず一部分をまとめた感じです。

 

とはいえ、いくつかに項目分けできる内容を一つにまとめて書いてあるので、長いです。

 

 人に分かりやすく説明したり、読んだ方の理解が進むようにするために、いずれ項目分けして書くつもりではいます。

 

自分向けのものを掲載しているということでご勘弁を。

 

施術でなにか変わることもあると思いますが、こうしたことの理解がどれほど自分を成長させてくれるのか身をもって実感していますので、これを読んでそう思えた方は次の節目までにレベルを上げられるようご自身でも頑張ってください。

 

いらしていただければ、これらを踏まえてお話もします。

 

施術前に限らず施術後日も、なるべく質問する前にこの内容の理解に努めていただけると助かります。

 

そうしていただくと、いらした時にどこがどうわからないか聞いていただけたますので、その方が貴重な時間を有意義に使えると思います。

 

よろしくお願いいたします。

 

 

 

写真は息子との久々の合作です。

 

 

 

 

 

無意識に働く「エゴ」というものがある。

 

「エゴではない自分」を「意識的な自分」と、とりあえず考えてみる。

 

「意識的である」とは、「考えている」ということ。

 

「生き方を変える」という言葉を例にとった場合、それを他の言い方に置き換えてみると、「考え方を変える」と言い換えることが出来る。

 

つまり、「生きること」は「考えること」。

 

「真剣に生きる」とは、「真剣に考える」ということ。

 

「想い(考え)・言葉」によって「行動」がなされ、その「結果」が「運命」となっていく。

 

真剣に考えれば、真剣に行動し、後悔のない結果がでる。

 

真剣に生きてその日を感謝で終えることができたなら、その感謝の気持ちでお祈りした時に、お祈りと合致した自分である。

 

「考える」とは、本心がエゴをコントロールする働き。

 

しかし、無意識の働きは「思い込み」という形でも存在し、「考える」ということにも巧みに入り込んでいる。

 

この入り込んでいる思い込みは、他人の考え、自分の考えではないもの。

 

だから、「考えること」はエゴをコントロールするために必要な働きではあるけれど、その働きの精度を上げるには、まず「思い込み」というものをなんとかしないと、なかなか思うようになっていかない。

 

つまり、自分の中にある他人の考えに気づいて、それをどうするか一度考えてみる。

 

例え他人の考えであっても、それが自分の方向性に合致して「いい方向性」を出してくれる場合もある。

 

「いい経験を積んでいる物事をわかっている人」や「きちんとした覚醒者」の話などはそのいい例。

 

しかし、エゴのフィルターもあるので、内容をよく見なくてはいけない。

 

「誰が言っているか」ではなく、「何を言っているか」。

 

エゴベースで生きている社会なので、濁りが混じっていて当たり前。

 

否定的に見ないで、「どこに大事なことがあるのか」で読み解く。

 

神のふりしてダマす存在もいる。

 

凡夫のふりをして、真理を話す存在もいる。

 

鵜呑みにしない。

 

「覚醒に近づく」か「覚醒するまで」は本心の働きが不十分なので、エゴが生きることをカバーしている。

 

エゴは本心に代わって身を守る働きでもある。

 

無意識の働きなので、意識的ではない、ということ。

 

意識的でないため、癖として自動的にパターン化されたものを実行する。

 

意識的であれば思うようにしていけるが、無意識である限りは「本心の都合」と「エゴの都合」は異なることが多いため、思うようにならないことが多い。

 

一方で、時に無意識の働きが思うような結果に導くこともあり、それはその人にとってエゴがいい働きをしていることになる。

 

エゴは限られた範囲の中で物を考える。

 

理屈にしてもそう。

 

「本心が発露するまで生き残ること」がエゴの当面の大きな役割なので、エゴはそれを全力で行うが、限られた範囲の理屈で動こうとするため、大きな視点から見ると「理屈に合わない考え方で好き勝手にしようとしている」ように見えてしまう。

 

しかし、エゴにとっては目的に合致したそのレベルでの行動なので、いいわるいの話ではないし、ウソもない。

 

しかし、その行動のもとが他人の考えで思いこまされていた場合、それは本心とは違うからウソになる。

 

「他人の考え」で「行動」して、「自分のおもうような結果」になることはまず無い。

 

「自分の想い・考え・言葉」に基づいて「行動」したものが、自分の思うような結果になった時、思うように生きられる「いい運命」といえる。

 

「自由に生きられている」といえる。

 

素直とは後者であり、前者はウソのある生き方。

 

エネルギーをかすめ取る仕組みとは、そういうウソを仕込むこと。

 

陰始度とは、そうしたウソのことではないか。

 

だから、本心に素直に生きられれば、陰始度はあまり気にしなくてもいいもの。

 

「素直に生きるための意志の強さ」があれば影響を受けづらいとしたら、その意志の強さを磨けばいい。

 

意志の強さとは、自信。

 

自信とは自分のやってきたこと(実績)を認めること、それを信じること、根拠にすること。

 

自分や他者のできなかったことを責め、否定する癖は、自信をつけさせない。

 

自他を責めて否定する癖が思い込みとして仕込まれている。

 

そのことに気づくこと。

 

気づいて変えていくこと。

 

それができると意欲が出てくる。

 

意欲はエネルギーとなる。

 

自分の中にエネルギーの源泉を見つけて理解すれば、外からエネルギーを集める必要はなくなる。

 

人から奪う必要がなくなる。

 

人を支配したり、身の安全のためと勘違いして支配される必要が無くなる。

 

思うように生きられたら、自由に生きられたら、意欲はもっとわいてくる。

 

自由に生きるとは、外にエネルギーを求めないこと。

 

自他の自由を認めるとは、自分や人の自由を否定しないこと。

 

意欲を奪うようなことをしないこと。

 

真剣に生き、真剣に考え、全力で生き、それが素直な想いに基づいており、ウソ無く自由に生きられるようになれたなら、20年後も地球に残るということ。

 

真剣に生きるために、真剣に考えるためには、思い込みを無くしていくこと。

 

エゴを無くすとは、思いこまされた他人の考えを改め、自分の考え方に変えていくこと

 

だから、エゴを無くすというよりは、エゴを薄くするでいい。

 

否定する必要はない。

 

否定することは、無くしてしまえ、ということ。

 

無くす必要のないものならば、エゴを否定するのではなく、その存在を認めてどうしつけていくか考え、どうコントロールするか意識すればいい。

 

野放しな自然もいいが、手を加えることで活きる自然もある。

 

原人のエゴはおそらく前者であり、前者のような境涯に至らない私のエゴは後者となる。

 

簡単にまとめれば、「素直に真剣に生きることが大事」。

 

無意識に働くエゴが強いならば、私達の場合は真剣に生きているか考えてみるといい。

 

そこから何かが見えてくる。

 

見えてこないならば、まだ考え方が足りないということ。

 

真剣に考えることでエゴが薄くなり、エゴが薄くなれば全体性とのつながりから全体性のエネルギーが流れ込む。

 

そのエゴではない全体性からのエネルギーが流れ込んでいたら、なにも気づけないはずがないから、見えてこない、気づけない、というのはまだ考え切れていないということ。

 

「難しい」の口癖で考えようとしないのは、考え切らないで途中であきらめる傾向の現れ。

 

自他を否定的に捉えることで、やり切る意欲を削いであきらめてしまうこともある。

 

地道にやらないと、なかなか変わらない。

 

途中で否定したり責める癖が意欲を損なう。

 

その癖も気づいたら変えていくといい。

 

気づいたところで変えていけばいい。

 

エゴを抱えて生きていれば、全体性で生きているわけではないから、完ぺきにやれるはずもない。

 

不完全さを認めて、修正しながら生きていくことをすればいい。

 

その延長上に空海がいる。

 

空海はそれをやっていた。

 

 

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前提となるもの

前回「とりあえず」ということで、一部まとめたものを掲載しました。

 

お気づきの方もいるとは思うのですが、使っている言葉はごくありふれたものばかりです。

 

「特別なことに価値を見出そう」というエゴで見ようとすると、「なんだ、そんなことか」ということで終わるお話です。

 

私が教えていただいて驚いたのは、その繋がりであり、順序です。

 

前回の内容は、これまでブログでは断片的に書いてきたことや口頭でお伝えしてきたことを、改めてひとまとめにしただけなのですが、そこから見えてくる全体像があり、その全体の理屈の中で物を考えていると、自分や他者のエゴの歪みが分かってくるようになります。(言葉は粗いものの、前回の書き方のほうが全体像がつかみやすいかと思い、長い文章ながらも掲載しました。)

 

真理や真実を学ぶ重要性がようやく分かってきました。

 

軌道修正が早く的確に行えるようになり、成長が早くなります。

 

宇宙全史でお伝えしてくださっている内容もそういったものであり、以前の私はまだ未熟でしたので理解できていないことが多かったです、というかほとんどわかっていませんでした。

 

よりよく生きるために、こうしたことを学んで段階を上げていただき、自分の成長の糧としていただけたらいいなと思います。

 

これまで何度も書いてきたことではありましたが、なかなか思うように伝わっていない方が多かったので、お伝えする方法を今後も模索していきます。

 

「シンプルな言葉で全体の働きを捉えやすくしていくこと」が、一つ課題として分かっていることです。

 

あとは、お伝えする内容はもちろん、順序も雑でしたので課題です。

 

 

特別なことが好きな方向けに、ちょっと余談を。

 

今朝起きた時にお祈りをしていると、節分の時に感じた青と白のエネルギーに加え、緑の光も発している膨大なチャクラのエネルギーと思えるものが、映像として浮かんできました。

 

その光の内容は特殊な感じもし、17日が楽しみになっています。

 

全体としていい方向に進んでいけるといいですね。

 

 

 

(※後から気づいたのですが、当初書こうと思っていた内容からずいぶんそれてしまっていました。

内容とは一致しませんが、タイトルはそのまま残します。)

 

 

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メモ

BBSの更新がありましたので、考えたことを一部書いておきます。

 

 

 

●「誰が」とは、どの程度のエゴの歪み(陰始度?)を有している人なのか、ということ。

 

エゴのフィルターの「歪み」や「濁り」によって、全体性から来たもの(情報など)の純度が下がる。

 

純度が下がる、とは、その人の都合によるウソや、未熟さや理解不足による誤解や勘違いなどが混ざる、ということ。

 

しかし、それらが混じっていても「いいもの(純度の保たれているもの)」も含まれているので、やたらに否定はすることもないし、鵜呑みにもしないことが大事。

 

対象をよく見て考えてみるといい。

 

 

 

●「どこ」とは、行きつく先が「エゴ(歪みや偏りや濁りで行き止まりの状態のエゴ、全体性から区別された者)」なのか「全体性(循環、大本の自分)」なのか、ということ。

 

歪んだり偏ったエゴにエネルギーが行きつくと、そこから先にスムーズに流れていかない。

 

行きつく先のエゴ自体は、エネルギーが集まってくるから非常に気分がいい。

 

楽して得したいエゴが強いと、自分の外、「他者から手軽にエネルギーを取れればいい」となる。

 

エネルギーを奪うために平等関係ではなく隷属関係に持ち込もうとし、「お互いの自由を認める」という方向性ではなくなる。

 

自分を成長させて自由に生きる、という発想になりづらい。

 

 

 

行きつく先が全体性であれば、循環する。

 

やったことが、形を変えて返ってくる。

 

成長して扱うエネルギー量を増やせば、生きやすさが増す。

 

エネルギーの源泉を、自分自身に見出すことでもある。

 

 

 

 

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メモ

 

無理なく当たり前にできること」が、全体性を損なわないということ。

 

全体性を損なうような、エゴの好き勝手にさせていない状態。

 

 

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2016/5/1 No.2827

BBSに掲載されたものを、備忘録代わりにこちらにも残しておきます。

 

書いた時整理したつもりでしたが、いま読み返してみると、もう少し整理して書いた方がよかったと分かります。

 

ちなみに、妻の先日のコメントは「自分で考えなさい」でした。

 

 

 

虚空蔵55様、みわ様

右のwombat様のNo.2813のご質問と虚空蔵様のご回答を読ませていただきましたので、私の思うところを以下に書かせていただきます。
自分の成長のためはもちろん、読まれている皆さんの為になればうれしいです。


①『今回の質問に関しまして五井先生は沈黙されています。』とありましたが、なぜなのでしょうか?

一つには、「自分で考えなさい」ということがあると思います。
「あてにする」「鵜呑みにする」、そうしたことで主体性を損なっている人が私も含めていかに多いことか、とこのところ考えさせられていました。
五井先生のような方達は、教えを求める者に対してある段階までは道理や真理、真実などを教えるために積極的に講話などされるのだと思います。
そして人が自分の人生を生きるためには、その教わった事を踏まえて自分で考えて行動に移していかなくてはいけません。
しかし、主体性を育むために指導をされているはずが、依存体質を育んでは問題になります。
30年後に延びるかもしれないと言われている中で、『5月中頃の(東海大地震の)前兆の有無は皆さんの祈りの段階に委ねられました。』とも書かれていました。
ですから、依存傾向で現状維持に陥りがちな私たちのレベルを上げるための喝ではないかと思います。

他には、虚空蔵様が左のNo.323で書かれていた「質問の五井先生からのお言葉はすべて事実です。」ということではないかと思います。
いまはこれ以上の話をしても、総合的に判断していい方に向かないから保留、ということではないでしょうか。
また、虚空蔵様がお祈りについて左のNo.324で「自分で何とかしますので、フォローをお願いします」ということを書かれていたのでそう思ったのかもしれませんが、「お祈りに対する取組をそろそろ見直して、都合で祈るのではなくきちんと感謝のお祈りができるようになりましょうね」「そういう方向性を出せる人を増やしていきましょうね」という含みが沈黙のなかにあるような気がしました。


②『五井先生のガンジーに対する身贔屓ではないのですが、シンパシーを感じるところ』というのは、出身や仲間であるということがあって、より正確なお言葉が発されなかった、ということなのでしょうか?

このご質問については、身贔屓の「身」のところについて思うことがあります。
普通に考えたなら「身うち」という言葉で捉えると、出身星が同じアルデバランという意味にも取れるのかもしれません。
しかし、wombatさんが書かれていた「仲間」にあたるかどうかはわかりませんが、この場合は「ある一定段階以上の覚醒を果たした存在」としたなら、その共通項にある者同士のシンパシーだと思います。
陰始という存在を筆頭にこの地球世界に張り巡らされたシステムの中で、一定以上の存在が数多くこれまでも下生されてきたと思うのですが、結果を出せた (高い覚醒を果たせた) 方達はそのうちのはたして何%くらいいらっしゃるのでしょうか。
こちらや別巻、非公開情報などを読むにつれ、裏では殆どと呼べるくらい大半の方達が挫折されたのではないかと思えます。
そう思っておりましたので、方向性のことはあるにせよ一定の結果を出したガンジーに対しての五井先生の在り方を考えた時、身贔屓という言葉を目にしてもあまり違和感を感じませんでした。
(読みこみ不足の可能性は否めませんので、この機会に確認できるなら活かしたいと思います。)
また方向性にしても、「自由を認める」という在り様であれば、五井先生がガンジー自身から直接問われない限り、通常は五井先生から積極的にお話することではないことではないでしょうか。
これまでは「学びになるから」という理由で様々な事柄を開示して下さっていたと思うのですが、①のご質問での私の見解である「自分で考える」ということを示されての沈黙であれば、特になにかをおっしゃっていただかなくてはいけない理由のほうがあまり見当たらないように思えます。
ですから、「正確なお言葉が発されなかった」という言い方もできるかもしれませんが、それよりは「経験した者にしかわからない世界のお話だから多くを語られなかった」ということのような気がします。
その境涯にない私たちに話してもやはりわかりませんので、混乱を招く分私たちの成長の効率がわるくなるため話さなかったことがある、ということかと考えています。
光明思想の五井先生の在り方として考えると、「否定」で捉えない考え方ということがまず浮かびます。
例え一種の恩寵であったとしても、ある一定以上の覚醒を果たすことは恩寵を受けられるなりのことをやったから到達できたことなので、否定的にならずにそのことは認めましょうね、いいことはいい、やったことはやった、ときちんと認めましょうね、ということでガンジーに対する評価を発言されたように思えます。

以上です。
よろしくお願いいたします。

 

 

 

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衣食足りて礼節を知る(メモ)

 

これはメモ代わりです。

 

 

 

・衣食足りて礼節を知る

 

・P.348:正常な自立心(自我)が獲得できる

 

・「たとえ部分的に苦しんでいるにせよ、苦しみは苦しみ」

 

 


ここには書かないかもしれませんが、エゴについて、これらの関係性をちょっと考えてみたいと思いました。

 

 

 

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「都合」について

 

(※以前のブログ「2016/5/1 No.2827」の内容について、補足で書いています。)

 

 

 

自分の都合だけでなにかをすることは、「利用する」ということ。

 

 

 

「自分が困った時だけ」、「全力をださないで楽をしたい時だけ」、という都合がある。

 

「楽をして得をしたい」、「自分は変わらなくても、取り組まなくても、そのことが何とかしてくれる」、「自分は得をするに値する特別な存在である」、などが下地にある。

 

「やったことが返ってくる」、「やった分だけ変わる」、という発想とは違っている。

 

 「宝くじ(高額賞金)が当たる気がする・・・」と大したこともしていないのに毎回奇跡を信じて買う行為のようなもの。

(以前は、たまにやってましたが、もちろん当たらなかったです・・・)

 

 

 

 

全体性を損なうやり方をしすぎてしまえば、どこかで修正がはいる。

 

ウソの分だけ歪みができていたのを、全体の流れを損なわない状態にする働きがでてくる。

 

それが、恒常性の維持。

 

 

 

 

自分だけの都合で利用できるということは、その利用する対象を自分よりも下に見ていることになる。

 

自分のほうが上だよ、支配できる関係だよ、と考えている。

 

弱肉強食とは、力あるものの都合が優先される、ということ。

 

だから力を集め、強くなり、自分の思うように生きられるよう取り組むが、そこで「自分だけの都合で」、とすると方向性がおかしくなる。

 

 

利用する者より利用されるものが下位とすれば、利用されるものは利用する者より力が無い、という理屈が考えられる。

 

 

そういう思いでやったことは、そういう結果(※1)しかでない。

 

それでも、思い通りに生きられていることにもなる。

 

(※1 どれだけお祈りの効果があっても、その効果は制限されたものになってしまう。)

 

 

しかし、上位であっても自由を認め、そういう都合での使われ方をゆるすことにより、主体性を損なわないあり方として、五井先生があるように思える。

 

 

 

お互いの自由を認める様子が、お祈りには現れている。

 

 

 

以上、不完全ですが補足と整理を兼ねて書いてみました。

 

参考になればうれしいです。

 

 

 

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否定について

 

 

「否定すること」は、「無いこと」にしようとすること。

 

「ある」ものをむりやり「無い」とすれば、理屈に合わないため無理が生じる。

 

無理が通れば道理がひっこむ。

 

だから、否定は全体性の働きを損なう要因となることがある。

 

否定しない考え方を身につけていくことで、全体性を損なわない奥行きのある方向性が見えてくる。

 

 

 

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「都合」についての補足

 

都合の話の補足です。

 

 

 

人はエゴをもって生きているから、完ぺきにはなにごともなしえないので、都合で動くしかない。

 

だから、都合で動くこと自体は悪いわけではない。

 

上位の存在であってもなんらかの都合で動いていることに変わりはないわけで、自由意思で生きることが認められているのだから、都合とは方向性ともいえる。

 

都合が合わない、とは、方向性が合わないとも考えられるので、一緒にいる気がないなら離れていけばいい。

 

弱肉強食なので支配や強奪などにより自由意志が否定されることもある。

 

 

 

観音様のように魂の永遠性などの先を見通せないと、ちょっと生きるのがしんどいのが今の地球ではないでしょうか。

 

嫌なものは嫌とし、命がけで身を守る、というのが基本姿勢だと思うのですが、ここはまだ覚悟が足りてないのでわからないところです。

 

 

 

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いろいろと・・・

 

以下、まとまりなくまた書き連ねたので、よければお読みください。

やや長めです。

 

 

 

これからの時代は、お互いの自由を認められる社会、ウソや矛盾を減らしていく方向性。

 

 

 

ありのままに近づくので、着飾った虚飾やウソはばれて、身の丈にあった姿になっていく。

 

特別なことを求める気持ちは、ありのままとは違う方向性にもなることがあり、注意したい。

 

「これしかない」という考え方も、時にエゴをつよくしてしまうため、その意味をよく考えてみる必要がある。

 

「無きゃ困る」「依存」は無理をしているのかもしれない。

 

「無ければ無いでいい」「あればあったで使う」なら否定は無いし、「無理」も無い。

 

 

 

思っていることと行動が一致した状態になればいい。

 

ありのままを素直に認められていないから、何かあるときにウソや虚飾がバレやしないかと不安になり、平常心を保てなくなる。

 

ありのままを認められるようになることが、平常心を保てるようになるために必要なこと。

 

自信が大事になる。

実力相応になっていく。

 

 

 

お祈りが感謝行であるならば、ウソの少ない、感謝の気持ちでのお祈りにしていくほうが自然。

 

程度の差はあるけれども、祈らないよりは都合であっても祈れば祈っただけ変わる。

 

しかし、どうせなら都合で祈るよりも、感謝の気持ちで祈れると、よりいい。

 

感謝して祈らなくては「いけない」、だと素直な思いとは違うし、できなかった時に自分に対して否定的な気持ちになり葛藤を生じカルマが増えてしまう。

 

無理はしない。

 

いまできないなら、できないでいい。

 

まずは、できるようにしていく「つもり」になれば、それだけでも方向性がでるのでよしとして、意欲を高めながら徐々に取り組めるようにシフトしていくと無理が少ない。

 

 

 

感謝の気持ちで祈れたときは、思いと行動(お祈りとその文言の意味)が一致して、ズレの少ない、ウソの少ない、深いお祈りになる。

 

より良いものとなる。

 

 

 

思いと行動が一致していないときは、思うような結果がでない。

 

それは自分の思いではなく、自分以外の誰かから思い込まされたものだからかもしれない。

 

全体性を損なうエゴは、素直な自分の想いではなく、そうした他者からの思い込みであることがある。

 

 

 

全体性に馴染むエゴは、自分の素直な思いと方向性があっている。

 

エゴを薄くする、とは、全体性を損なうエゴを、素直な思いに近づけていくこと。

 

思い込み、考え方を変えていくこと。

 

思い通りに生きられるようにしていくこと。

 

 

 

段階にもよるが、やるべきこと、とはこういう取り組みであるといいのではないか。

 

自分に向き合う、とは、こうした思い込みに気づいて、気づいた時に変えていくこと。

 

気づいた時に取り組むことなので、常にできることでもない。

 

 

 

思い通りにならないことを不自由という。

 

だったら、自由な生き方は思い通りに生きられること。

 

そういう方向性で自力を磨いて伸ばしていく、その取り組みのためのフォローを、見守ってくれている存在達はしてくれている。

 

自力がつかなければ、フォローはただの虚飾になってしまう。

 

フォローを外してみた時に、「以前と変わっていませんでした」では、新しい時代に生きていくだけの力を備えていないことになる。

 

「20年後に地球に残ります」と言っても、これでは行動が伴っていないことになるので、そういう結果になってしまう。

 

やるべきことは、やったほうがいい。

 

なんとかしてくれる、ではなく、なんとかする、という気持ちを大事にするといい。

 

 

 

今回の内容はこんな感じでしょうか?

「アナと雪の女王」

 

https://www.youtube.com/watch?v=cvj3-MZO9Tw

 

 

 

 長くなってしまったので、ここまでにします。

 

他のブログと重複するところもあり、今回も整理はできていません。

 

いろいろ考えていると次々出てくるので、書けるときに書いておこうという感じです。

 

少しでも意欲のある方は頑張っていただきたいということもあり、ブログにいろいろ書くようにしています。

 

とりあえずでもいいので、読んでいただけるならばうれしいです。

 

内容については、読む際に御自身でも考えながら読んでみてください。

 

私が気づいていない理解不足なところもありますが、今後も考えながら少しずつ分かりやすくしていきたいと思います。

 

よろしくお願いいたします。

 

 

 

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楽して得したい

写真は、息子に付き添っての登校途中で見つけたナマズです。

 

地面の下で大きなお仲間が揺れ動くというイメージが、妙に納得できたのは不思議でした。

 

 

 

タイトルの「楽して得したい」についてですが、パワースポットがわかりやすい例かもしれません。

 

抽象的な物言いばかりになりますが、人には器と呼ばれるものがあります。

 

人間を磨いて、経験を積んで、その人の器は大きくなります。

 

この器なりのエネルギー量しかその人は扱えないとすると、パワースポットに行っても器なりのエネルギーしか入りませんが、器以上のエネルギーが手に入るような気がしてしまうのが私たちの「楽して得したい」の表れだと思います。

 

順序としては、まず器を広げて、そしてその広がった分に見合っただけのエネルギーが入る、というのなら問題ないはずです。

 

ですから、まず器を広げる努力をすることを考えられればいいわけです。

 

因果応報というなら、「やったことが返ってくる」という理屈ですが、やってないことが返ってくると期待してしまうところが課題になることが多いと思います。

 

以上、簡単に書いてみました。

 

 

 

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見守る存在の優しさなど

自分の限界までやった時に顔を出す「エゴの不完全さ」がある。

 

「もう無理」「これ以上はできない」など。

 

しかし、「滅びたい」という全体性を損なうエゴと異なり、自分の限界までやる生き方は真剣に生き、やるべきことをやって全体性を損なわない「命を活かす生き方」をしているため、全体性を向いている。

 

方向性が全体性を向いていれば、成長しながらいつかは全体性に繋がっていくことができる。

 

一方「全体性を損なう方向性」だと、閉塞感が強くなり、生きづらい感じが強くなる。

 

ともすると限界で姿を現すそうした自己否定を、見守る存在たちは全体性の働きとして包み込み、限界を超えた先を示すことで「損なう方向性」を「損なわない方向性」に転換するように促しているのではないか。

 

そして感謝の気持ちで全体性に身を任せることができるようにしてくれるのではないか。

 

見守る存在の優しさ、フォロー、全托とは、そういうものではないかと思います。

 

 

 

 

 

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自由について(メモ)

なぜ否定しない考え方が大事かというと、自由を認める生き方ができるから。

 

自分の自由は認めるけれど、人の自由は認めない、だと、平等だと思っていないことになる。

 

「自分は特別」だと思っている。

 

そういう特別さは、全体の働きとはすっきりなじまない。

 

調和しない。

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妻へのメッセージ

先週末、妻から調べものをしてほしいと頼まれました。

 

自他公認の機械音痴の彼女がスマホに変えてから、妻が自分で検索しているところを見たことが無かったため、

 

「たまには自分で調べたら?」

 

と話すと、ごにょごにょ愚痴を言いながら、突然待ち受け画面にむかって話しかけ始めました。

 

「画面に向かって話しかける」というどこかで仕入れた知識ですが、まったく画面に変化はなく、あえなく撃沈。

 

その後、Googleを開き再度話しかけ成功したかに見えたのですが、今度はどういう流れか不明ですが、検索キーワード「認識してますですよ」から写真の画面の内容が表示されました。

 

『自分がダメなやつ、と認識してから、すべてが始まった』

 

なにか意味ありげです(笑)

 

妻はなにか納得したのか、見るなり大笑いしていました。

 

「ダメなやつ」はどうかと思いますが、「自信」についてはいらした方にたびたびお話をしており、ここではあまりふれていないかもしれないので、機会を見つけて整理してみたいと思います。

 

 

 

BBSの更新がなされ緊張が増している方もいると思いますが、これまでの学びの確認として実地テストが行われたようなものですし、現状を見直して軌道修正するいい機会になるのではないでしょうか。

 

ブログで書いている内容はくだらないものもありますが、大事なことも沢山含まれていると思っています。

 

ある程度理解が進むとおのずと整理されてくる内容を、(よくいえば)ちりばめてあります。(整理されていないだけですが)

 

軌道修正の際に読んでいただいてもいいかと思います。

 

 

 

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意欲

褒める、認めることで、意欲は湧く。

 

責める、否定することで、気持ちは萎え、意欲は損なわれる。

 

不出来なことでも、やったことを認め、その上で修正や改善について伝えられたら、意欲は損なわれず、能力も伸ばしていける。

 

不出来なことを認めず、無視し、こちらがいいと思うものを一方的にかぶせるように伝えると、意欲は損なわれ、言いなりになり、自分がない状態になっていく。

 

上記は一つの例えです。

 

先日いらした方のお話を聞いていて、一つ一つの事柄についての理解がずれていたり浅かったりすることで、知識はあるけどわかっていない状態になっていることがわかりました。

 

私もそういう状態から抜け出しつつあるので、確認も兼ねてこうした事は書いていきたいと思います。

 

 

 

昨日、ブログ「妻へのメッセージ」にコメントをくださった方たちがいらっしゃいますので、よければそちらもご覧ください。

 

 

 

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インスピレーション

気づきや直感と呼ばれるものがあります。

 

以前は、ボーッとしていると、不意に気づきがあるような気がしていました。

 

だから、一生懸命ボーッとしていようとしていたこともありました(笑)

 

楽して得をしたかったんですよ・・・

 

因果応報という言葉があります。

 

やったことが返ってくる、という理屈です。

 

それが全体性という一つの働きの中で起きることだとすると、気づきや直感が自分に返ってきたものだとしたなら、自分はそれに見合うだけの何をやったか考えてみるといいと思います。

 

この場合、真剣に考えたから気づきが得られたとしたら、特に問題はありません。

 

しかし、大して考えもしないのに特別なインスピレーションがあったとしたら、一度そのインスピレーションの内容を丁寧に観察してみるといいかもしれません。

 

エゴが喜ぶ内容ではないか、エゴが増える方向性ではないか、と。

宝くじやうまい話と同じことです。

 

一方的に貸し付けられた徳のような場合、いつかは返さなくてはいけません。

 

楽して得したい、と思っていると、こういうものにハマることもあります。

 

返した後は以前と同じだった、では成長がありません。

 

自分を磨くことで得られる成長には喜びがあり、そこから湧く意欲は、更なる成長への取り組みの原動力となります。

 

誰にも奪われず、誰からも何も奪わない、そしてなにより気分がいい、そんな生き方の方向性だと思います。

 

 

 

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平常心を保つこと

前にも書いたかもしれませんが、平常心を保つということについて、「ぶれなくする」と考えていると大変だと思います。

 

ぶれてもいいけれど、「平常心に立ち返る速度を早くしていく」と考えるといいのではないでしょうか。

 

「ぶれてはいけない」と思っていると、葛藤が生じることもあるので。

 

 

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方向性を出すことについて

 

方向性を出す、ということについて、ここ最近続けて描いた息子の絵を借りて例えてみます。

 

左に描かれているのは、ご覧のように「鳳凰」ですが(・・・わかりませんよね)、

これを描いた時は何も見ずにイメージだけで描き上げています。

 

 

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方向性を出すために

 

昨日とタイトルが似ていますが、補足のような内容になります。

 

方向性を出して日々過ごすようになると、保ち続けることの大変さに気づきます。

 

その時に大事になるのは(軌道修正などもそうですが)、「あきらめない」ことと、「強い意志をもって取り組み続ける」こと。

 

そうすると次に、今度はそのあきらめない強い意志をもつために、「自信」が必要になります。

 

自信は自分のやってきたことを根拠にしてその根拠・実績を信じること。

 

しかし、できたこと、やったことをそのまま認めるだけでもいいのに、ついなにかと比べて「できていない」「だめだ」となってしまいがちです。

 

「言葉や想いには力がある」と昨日書きましたが、こうしたところできちんと認めていかないと、実績が無いことと同じになります。

 

自信のもととなる根拠が育まれません。

 

ありのままを認めればいいのに、謙虚なつもりで過信や妄信とはき違えて卑屈になってしまうと、自信がいつまでもつくことはなく、強い意志も持てず、あきらめてしまい、方向性を見失います。

 

そして、自分はダメだ、できない、という悪循環に入り込み、負のループでこれまでのようにさまよい続けることになります。

 

だから、否定しないことは自分らしく生きるためにも大事なことなのです。

 

 

 

課題を見つけて修正するために、このままではだめだな、という否定は問題ありません。

 

いろいろ考えていると混乱してしまい、あれもこれも一緒くたにしてしまうことがあるので、ご注意ください。

 

 

 

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方向性についてのあれこれ

人はこの世界でエゴを抱えて生きている。

 

エゴを抱えているということは、不完全であるということ。

 

不完全だから完全な状態を目指している。

 

それが大きな方向性。

 

それでも、どこを目指すかは人それぞれ自由のはず。

 

それを否定することは、自由を認めていないことになる。

 

自由を認める、とは、否定をしない、ということでもある。

 

「(不完全な状態から)完全に近づく」とは、「よりよくしていく」ということ。

 

そのためには「不完全さ」という自分の立ち位置をまず自覚し認めないと、起点が定まらず方向性を出せなくなる。

 

方向性を出せないということは、よりよくしていけない、ということ。

 

動く気にならないし、動こうにもどう動いていいかわからない。

 

「人の一生」という限られた時間の中で、できることは限られている。

 

頭は一つしかないので、一度に考えられることは一つだけ。

 

体は一つしかないので、一度にできることは一つだけ。

 

限られた中で、その一つしかできないことを何に費やすか。

 

例えば、ある情報を目にして、含まれているウソや間違いを見つけて否定的な考え方ばかりしていたら、その横にある自分を高めてくれる真実や道理になかなか目を向けることができず、思うように成長していかない、ということでもある。

 

それは行動から考えれば、「成長する気はないよ」と公言しているようなもので、ある時期を迎えた時にその結果を受け入れなくてはいけなくなる。

 

「だって、それが一番大事だと思ってたんでしょ?」と。

 

自由に生きられる中で大事だと思うことを選ぶというのは、好きな方を選ぶ、ということでもあり、好きにやった結果ならしょうがないよね、自分のせいだよね、と。

 

カルマもあるので、きちんとやっても毎度毎度うまくいくとは限らない。

 

限られた時間内に結果が出せなければ、途中頑張ったにしてもやらなかったことと同じになることもある。

 

「よく頑張ったけど、結果出なかったから、次は地球とは一緒にやってけないけど仕方ないよね、自己責任だもんね。」

 

「こういう結果がでるような取り組みをしたのは、他でもないあなた自身だもんね。」と、言われたら言い返すことはできないのではないか。

 

ある意味、信じて見守るという観音様の有り様はこういう厳しさを含んでいると思う。

 

「気づくまで待つ」ということは、「困ったら助けてくれる」ということではない。

 

気づいた時点で軌道修正してそれなりの行動を起こすから、因果応報でやったことの結果として救われるようなことになっていくだけ。

 

「天は自ら助くる者を助く」

 

「救世主はあなた自身なのです。」

 

 

 

「なるべく早く気づいて、やることやれよ」と、どこかの誰かにいわれている気がします。

 

 

 

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特別視について

例えば、誰かを特別視しているとする。

 

特別であることを持ち込むことで、力関係で考えるようになってしまう。

 

これは上下関係を持ち込むことでもあり、下につくことになってしまうため、エネルギーをとられる立場を自分で作り出してしまうことになる。

 

自分に対する特別視はエゴを増やす場合があるが、他者に対しても同じことが言え、他者を特別視することで「平等」「対等」はなくなり、損得勘定のある上下関係、隷属関係になるから自分のエゴが増えてしまう。

 

他者がどうあれ、自分のエゴをきちんとして等身大のありのままの自分を認めていられたら、他者に振り回されて平常心を乱すことはないはず。

 

その他者を陰始に置き換えても同じ理屈。

 

陰始は特別ではなく、同じ立ち位置にあるけれど際立ってエゴが強い人、と思えばいたずらに怖がる必要も減ってくるはず。

 

誰かを悪くして否定するのではなく、向き合うべきは自分自身のエゴ。

 

対立軸をつくり相手を悪とすることで自らを正義にして自分だけ優位に立とうとすると、これまたエゴが強くなるので、注意が必要。

 

 

 

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ありのままとエゴについて

 

以下、思ったことです。

 

私もばっちりエゴを抱えて生きているので、間違えることも当然あります。

 

鵜呑みにしないで、考えるたたき台にしてお読みください。

 

一部内容が混乱をまねくかもしれませんが、掲載しておきます。

 

 

 

「ありのまま」は「全体性としての私」の方向性の基点だから、ここにたどりつければいい。

 

自由があるので、ここからじゃなきゃ方向性が出せない、というわけではない。

 

エゴを薄くする(考え方を変える)ことで、全体性を損なわないエゴであれば、エゴは強くても問題ない。

 

それは宮本武蔵の章で書かれていた事に該当するはず。

 

完璧だと変化は起きない。

 

不完全だから変化する。

 

エゴは全体性の中に不完全を作り出しており、不完全故に方向性が生まれる。

 

エゴがあるから変化が生まれる。

 

エゴがあるから方向性が生まれる。

 

エゴの強さは方向性の強さでもあり、ありのままという基点が定まった時、出された方向性の推進力はエゴの強さが担うことになる。

 

全体性を損なわない強いエゴは、全体性を大きくかき混ぜながら、宇宙の大きな方向性の推進力ともなりうるもの。

 

だから完全覚醒をしても、エゴは無くならない。

 

全体性の働きを邪魔しなくなるから、無いように感じる。

 

エゴを否定してその存在を無いものとするのではなく、エゴをうまく使って全体性の成長につなげていくことが、これからの一つの方向性。

 

エゴを薄くする、の「薄く」や「無くす」は、全体性への影響の話。

 

エゴは無くならない。

 

 

 

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エゴと意欲について

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概要

 

まず、全体性に気づくこと。

 

次に、その中にあるエゴに気づくこと。

 

エゴは全体性を「しっかり」意識しないときちんと見えてこない。

 

損なわれた全体性の働きを取り戻すために、カルマを解消し、エゴを薄くしていく。

 

全体性が損なわれなくなると、それがありのままであり、天命に沿って生きられるようにもなる。

 

全体性を損なわない生き方で、ありのままの自分を基点に生きていく方向性、それが天命に生きること。

 

 

 

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陰始と方向性

 

陰始はこれからの時代に生き残る方向性とは対極にある。

 

「滅びたい」「滅ぼしたい」という方向性。

 

卑弥呼の章に、最後に残る魂は消滅しない、と書かれていた。

 

しかし、食われた魂もおそらく食った魂の中で集合魂のように何らかの形で残り続ける。

 

消滅しないなら、永遠に生き続けるなら、気分悪くあるよりは、気分よく生き続けたほうがいい。

 

消滅はしないけど変化はする。

 

気分よくいられる変化を選べばいい。

 

気分よくいられる変化は、退化や劣化よりは、進化や成長。

 

気分よく生き続けるには、成長を実感できる方向性を選ぶこと。

 

 

 

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陰始と方向性 続き

 

「意欲」を「エネルギー」と考えてみる。

 

エネルギーを奪う、とは、意欲を奪うということ。

 

思い通り生きられたら意欲がわくし、意欲がわけば、よりよく生きるという方向性をだしやすくなる。

 

意欲を損なうと、生きる意欲が損なわれる。

 

それは大きく捉えて、死に向かう。

 

人の意欲が損なわれると、その人はよりよく生きるという方向性を見いだしづらくなり、滅ぼしたいという方向性をもつ陰始にとっては、思い通りになっているため、意欲がわいてくる。

 

人の意欲が損なわれることで、陰始の意欲が増す。

 

これがエネルギーを奪う、という仕組み。

 

上下関係、隷属関係などで奪う仕組みはこれ。

 

陰始は「滅びたい」が消滅しない。

 

人の意欲が損なわれて「滅ぼしたい」の方向性が進むほど、思い通りになっているため意欲が湧くし、自らが滅びの方向に向いても同じ理屈で、滅びたいが実現しない矛盾にはまりこんでいるのではないか。

 

とりあえず、滅びたい、滅ぼしたい、と一番強く思っているから、頂点にいるという理屈。

 

陰始との関係性は、同じ方向性を向いているから生じること。

 

違う方向性を「強い意思」で「あきらめずに」出し続けていけば、陰始との関係性からは抜け出していく。

 

陰始の望まない方向性は、よりよく生きる、という方向性。

 

成長を実感しながら、よりよく生きていくと、行き着く先はありのままの自分、素直な自分。

 

全体性の働きは自然な流れのようなもの。

 

自然な流れになじむ、損なわない状態は、ありのままであること。

 

行き着く先は全体性であり、全体性の中には「在る」ものがすべてある。

 

不完全なエゴも、意味のないように思えるものもすべて。

 

全体性を認めることは、エゴを越えたものを認めること。

 

自分より上位の意識に気づいていくこと。

 

物事がわかっている上位の意識は、物事がわからない下位の意識をコントロールできる。 

 

守護霊さんと現象界の私たちみたいな関係性。

 

エゴは自分の都合で動きたいので、上位の意識に気付きたくない。

 

陰始も同じ。

 

全体性に気づいてそちらの方向性を求めると、よりよく生きる方向性になるため、「滅びたい」から陰始自身は気付きたくないし、「滅ぼしたい」から、みんなに気づかせたくない。

 

だから、陰始の限界はある意味エゴの枠組み。

 

エゴを越えた全体性に気づくことで、陰始を超える方向性を見つけたことになる。

 

そうすれば、陰始に振り回されなくても済むようになっていくのではないか。

 

 

 

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人の不幸は蜜の味

 

思い通りにならないことを不自由という。

 

思い通りになることを自由という。

 

思い通りになって自由を感じられたら、幸せ。

 

思い通りにならず不自由を感じていたら、不幸せ。

 

人の意欲を奪うことは、不自由にさせること。

 

「滅ぼしたい」という思いは、人の不幸を喜ぶ。

 

陰始度とは、人の不幸を喜ぶ思い。

 

本人の主体性を奪って、自分の都合で人を操作しようとすることは、本人のやりたいようにさせないことで自由を奪っている。

 

不幸を願っている。               

 

親が子供の将来を勝手に心配して、先回りして口を挟み、善意を押し付け、勝手に安心する。

 

子供の幸せを願っている、そう思うかもしれないけれど、実は不幸を願っているのかもしれない。

 

子供がいうことをきく姿を見て喜ぶ親は、子供の不幸を喜んでいるのかもしれない。

 

子供はある時、親に干渉されないところで、主体性を取り戻そうとする。

 

親が嫌うことを通して。

 

「もう僕の、私の、自由を奪おうとしないで!」

 

そういう思いが、その行動にあらわれているのかもしれない。

 

自画自賛のような過剰な自己肯定も、これでいい、このままでいい、にすりかえられていき安心してあぐらをかいてしまうため、向上心のような意欲が損なわれている。

 

しかし、安心しているためそのために気づいていないこともある。

 

 

  

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夏至を前に

 

箸休め的な・・・

 

ここ数日、あるがまま、という言葉を頻繁に考えていたせいか、

 

「あるがまま・・・なすがまま・・・、ナスがママなら、キュウリはパパよ」

 

という、学生時代の同級生のどうでもいいダジャレを思い出しました。

 

写真は「ネギ」で、特に関係ありません。

 

 

 

それはともかく、夏至を前にしてなのか、エゴのあぶり出し、因果応報でカルマ解消の時期に入っている方が多いようです。

 

エゴが活性化して、無意識にミスしていたり、過剰に反応してトラブルになることもあるかもしれませんので、自身の言動や行動に注意をはらい、チェックなどしながら、少し意識的に過ごされるといいかもしれません。

 

夏至は因果応報でやってきたことの結果が出始める時期だと思います。

 

ですから日頃からキチンと向きあって個々の課題をクリアしていければ、よりよい方向性に軌道修正されていくと思います。

 

 

「学び」は、実生活に役立てられるかどうか、だと最近考えています。

 

役立てる方向性は、生き方が「全体性」を向いていればいいようです。

 

物事に向き合っていく際、これまで学んできたことが活かせればいいですね。

 

(「全体性」に気づくこと、意識すること、はとてつもなく大事なことだと先日気づかされました。)

 

 

 

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最前線

 

地球は、全体性を損なっていたものを集めて作られた。

 

全体性の働きをきちんとし、新たな方向性を出すために地球は作られた。

 

集められたそれらは湿気たマッチみたいなもので、それを燃やすことで火力エネルギーのようにし、全体性の働きの推進力になりうるもの。

 

全体性を損なっている面はクズとも呼べるが、クズを処理するにはそれなりの力も必要。

 

クズみたいな存在がクズを処理できるはずもなく、処理できるなりの力を持って生まれてきているはず。

 

それが創造する力。

 

「思い(言葉)」を「行動」に移すことで生じる「結果」があり、その結果の積み重ねで生じる「運命」を創造する力。

 

思いによって運命をつくる力。

 

自分を信じるとは、この創造する力をつよく自覚し、理解し、活用していくこと。

 

その力を使って全体性の滞りを動かせるようにしていく。

 

そう考えると、エゴは全体性の一部として与えられた力ともいえる。

 

不完全さゆえ、完全を目指す方向性が出せる。

 

創造する力がここで併せて使われることで、湿気たマッチはよく燃える燃料になる。

 

エゴの不完全さはゆらぎであり、それがもたらす結果は不確定。

 

きちんとした方向性が出せれば、宇宙は大きく変わっていく。

 

だからいまの地球は宇宙の最前線。

 

 

 

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ブログの更新など

このところ頻繁にブログをアップする関係で、コメント欄もたびたび更新されていますので、そちらもご覧いただけるといいかと思います。

 

時間がない、と感じ、出来るうちにできるだけの事をしようと思って書いていますので、私個人の備忘録でもありわかりづらいことも書いています。

 

準備が整っている方もいてそれぞれのタイミングに向けて動いてもいますので、一概に言えないことかもしれませんが、私の感覚では「ありのまま」と「全体性」の重要性に気づいてから進んだ理解があり、これまでぼやけていたものがよりはっきりしてきたことで、相当に大きく動きが出てきていると数日前から思うようになりました。

 

同じ内容でも視点が変わることで得られる理解もありますので、粗い内容からできる限り読み取ろうとしていただけるといいと思います。

 

その時に意識していただくといいのは、「全体性」というものがあるんだと強く思いながら、真剣に考えることです。

 

インスピレーションはそうした取り組みの結果得られるものです。

 

 

 

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意欲が削がれるのは誰のせい?

 

昨日はエネルギーを奪う、という事について書きましたが、その補足のような内容です。

 

意欲を削がれたと感じた場合、意欲を削がれたのは相手のせいと一方的に考えがちです。

 

しかし、強い気持ちで諦めなければ、そうならないことも選べます。

 

つまり、意欲は自分次第ということです。

 

誰かのせいではないのです。

 

こちらが思うようにいかない事に対して腹を立てたり傷ついたり、ということは、自分の責任を誰かに押し付けたり、あきらめてしまったとも考えられ、幼い、弱い、ための依存といえるかもしれません。

 

意欲は「自分がそうしたいから」ということで保てるようになると、それは自立できているといえます。

 

依存していると気づけた場合、そのことを認めることが大事です。

 

昨日も書きましたが、こちらが思うようにいかなくて意欲が衰えた時、他人の不幸を喜ぶ人は、その姿を見て思ったようになっていくので意欲が高まる。

 

この場合は確かにエネルギーが動いていますが、上記のように考えれば、お金を奪うような感じでエネルギーが奪われるイメージとは異なる印象をいだけると思います。

 

 

 

個別にみれば、意欲を失った人がいて、意欲が高まった人がいる、ということですし、全体性という一つの働きの中で考えたなら、誰かが意欲を損なえば、減った分だけほしがる人のところに流れる、という理屈です。

 

意欲を損なわなければ、ほしがる人のところにも流れません。

 

平常心を保ち、強い気持ちであきらめず、自分の思うように生きていく、そうしたことができれば、奪われるという発想も薄らいでいくのではないでしょうか。

 

似たような内容ですが、理解につながることを願います。

 

 

 

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子供とエネルギー

 

以前宇宙全史のBBSで子供を産むことでエネルギーを損なうお話がありましたが、あれも「人の不幸を喜ぶ気持ち」ということから考えてみるとわかることがあると思います。

 

子供は今ある環境で精一杯たのしみ、意欲にも満ち溢れています。

 

しかし、自分のことしか考えない歪んだ価値観を持った大人がいたとすると、その子供の姿を見ても、昨日のブログに書いた理屈で、意欲を勝手に損なうことがあると考えられます。

 

このように、「子供が生まれたから」ではなく、そもそもの考え方がおかしいことが少なくないのではないでしょうか。

 

また、理想をかかげて生きることもいいのですが、エゴの不完全さを理解し、完璧には成し得ないことを知ったなら、今ある中でベストを尽くすことが命を大事に活かすこととわかってきます。

 

子供のせいで思うように生きられなくなった、と責任転嫁していても、自分の成長にはなんら寄与せず、意欲も損なったままです。

 

子供と共に生きる、という選択を一番大事にするなら、お互いが気分よく生きられるよう共に生きる環境の中で最善を考えて行動に移していけばいいだけです。(※1)

 

自分の時間軸の中では、一度に考えられることは一つだけ、行動できることも一つだけです。

 

相手が嫌がっても自分のやりたいことを優先する、というのは、一緒に生きていく、という選択を疎かにするということであり、それ(※1)を選ばない、ということを表明していることになります。

 

自分だけの理想に入り込むのではなく、共に生きる上での理想を自分の一番大事なこととして考えるなら、「子供にエネルギーを奪われた」ということにはならないのではないでしょうか。

 

こうしたことをよく考えずに気にすると、「子供を作らないほうがいいのか」「子供できたから自分は思うように生きられていないんじゃないか」などと考えかねません。

 

「共に生きる」、「互いの幸せを素直に思える」、そういう考え方・エゴをお持ちなら、子供から元気をもらい、励みにし、意欲をもって生きることもできるはずです。

 

もし、人の不幸を喜んでいることに気づいたとしたら、

 

「ああ、自分はよりよく生きるという方向性でいるから、この考え方はそぐわないよね。だから、一度に考えられることは一つだけなんだから、考え直して素直に人の幸せを喜ぶようにしよう。」

 

と考え直せばいいだけです。

 

これが、考え方を変える、思い込みを修正する、エゴを薄くする、全体性を損なっているものを正していく、ということであり、以前も書きましたがこれが「第二の易行道」と私の神様に教えられました。

 

誰かのせいではなく、自分の中の歪んだ考え方に目を向けることが、自分に向き合うことです。

 

その歪みは、全体性の働きを損なっているものであり、全体性という大きな視点から観察することで見つけやすくなります。

 

真理や真実、道理に理屈、いろいろありますが、どれも全体性の中でその働きを損なわずまっとうに機能しているものであり、そうしたものと自分のエゴを照らし合わせてみることで歪みに気づき変えていくことが出来るようになります。

 

宇宙全史に限らず「学ぶ」ということは、そうした全体性のきちんとした働きを理解する取り組みであり、その学びを活かして自身のゆがみを正して生きていくことが、やることをやっている、ということになります。

 

一度にできるものではありませんので、少しずつでも取り組んでいくといいと思います。

 

 

 

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施術のお話

 

施術を通してお伝えしていることは、ありのままに向かう道筋のようなものです。

 

ですから、目新しさはありませんし、そんなこと、と思うようなことも少なくないはずです。

 

ただ、それを聞き入れてくださり、実践されている方は変わってきています。

 

きらびやかではないし、華々しくもなく、過渡期は大変ですが、ある段階にくると楽に生きやすく感じているようです。

 

特別な言葉のようなものを期待していらっしゃる方もいるかもしれませんが、フォローですから、ある程度は自分でやることをやらないと声のかけようもないということもあるようです。

 

因果応報ですから、なにかやらないと、なにも起きません。

 

なにかやれば、なにか変わります。

 

「いい子にしていたらご褒美もらえる」は以前の私ですが、意欲を静かに削いでいる場合もあると思います。

 

お利口な顔をして口を開けて待っていても、入ってくるのはせいぜい虫かほこりくらいのものではないでしょうか。

 

これからの時代の方向性を考えて、素直な自分で生きていけるよう、自分に向き合いながら進歩していけるといいですね。

 

 

 

よくわからず一週間ブログを書き続けていた感じです。

 

明日は一部空きもありますし、来週も徐々にご予約で埋まり始めています。

 

ご予約、ご来院をお待ちいたしております。

 

 

 

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善悪で裁く

 

善悪で裁く、というのは、自分が正しい、という理屈です。 

 

自分の価値基準を優先して人の自由を奪う、人の思い通りに生きさせない、人の不幸を喜ぶ、という図式になります。 

 

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妄想、神様たちのやりとり

ふと考えていた、軽い感じの空想です。

 

 

 

「最近ここ(宇宙)、なんかつまんないよね」

 

「ずっと無くならない(永遠)って、けっこう退屈だよね」

 

「最近ここ(宇宙)ほったらかしてたけど、よく見たら、あそことかこことか、ちょっと止まっちゃってんじゃん。あ、腐りかけてるし・・・これ動かせるようにしてたら、ちょっとは暇つぶしになるんじゃない?」

 

「え、そう?このままじゃどうせ64回目もすぐ終わるから、ちょっと遊んでみる?あちこちいちいち行くのも面倒だし、一か所で動くかどうか試してみようか」

 

・・・地球誕生。

 

「う~ん、なんかいまいち動き悪いよね」

 

「あ、そうそう、重石のっけて負荷をかけたら必死になって動くかもよ?」

 

「あぁ、例のやつね」

 

・・・陰始(悪いやつ、悪魔)登場。

 

「じゃあ上からのっけて負荷かけてみよっか!それっ!!」

 

「・・・いま、グシャって言わなかった(;´・ω・)

 

「・・・半分以上死にかけてるのもいるし、さっきより動きわるくなってんじゃんよ!お前なにやってくれてんの!?(# ゚Д゚)

 

「やっば、ちょっとかぶさってるのどかしてひっくり返さなきゃ!」

 

・・・反転。

 

「よかったよかった、ようやく動き出したよ。」

 

「まったく動きの悪いやつらだから手がかかるよね。でも負荷かけたから勢いついたのもいるし、これでここ(宇宙)も動きが出てきて少しは面白くなるかもよ」

 

「いい暇つぶしになったね」

 

 

 

小妹さんにお願いすると面白いかも、と考えていました。

 

 

 

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夏至と冬至の意味

宇宙全史では夏至と冬至が節目になっていくと教えてくださっています。

 

その意味を考えたのですが、世の中の波動が上がっていく中で、人もそれぞれに因果応報に基づいてそれまでやってきたことの結果が出る、一緒に上がっていくか、現状維持のつもりで世の中とは相対的な関係から下降となるのか、決算発表のような感じでとらえています。

 

ですから、それまでにどういう取り組みをしてきたか、が大事になり、決算報告を受けてどう軌道修正するか、も大事になります。

 

上昇傾向にある人は、自分の現状をきちんと把握しそれを自覚しないと、夏至や冬至のあともそれまでと同じ感覚で過ごしてしまった場合、上昇はなかったかのようになっていってしまいますので、気をつけましょう。

 

意欲の根拠となるようなものをなるべく自分の中に求めた方がいい理由としては、これから大変なことが起きてきたとき、いつも誰かがなんとか意欲を引き出してくれるとは限らないから、ということが一つにはあります。

 

方向性を違わない、意欲を損なわないのであれば、必ずしも自分の中にだけそうした根拠を求める必要はありません。

 

ただ成長を実感しながらであれば、意欲は保ちやすいですし、夏至や冬至もある意味それを意識するにはいい機会になると思いますので、あと数日ですが、頑張ってみるといいと思います。

 

 

 

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やわらかいお祈りについて

 

以前も書いたことがあると思うのですが、過去にBBSでやわらかいお祈りについてお尋ねしたことがあります。

 

身内の方にお伝えしたい状況でしたのでご相談させていただいたという経緯がありますが、その際に月読之大神のお言葉としていただいた内容が、

 

「みんながいるからあなたは幸せ。だから自分の幸せのために、みんなの幸せをお祈りしましょうね、と伝えてあげなさい。」

 

というようなものでした。

 

私たちは全体性の中で、エゴに囲われた不完全な状態として存在しています。

 

その不完全さを、お互いに補い合うことで、思うように生きられており、前も書きましたが、思うように生きられることは自由であり幸せであると言える、わけです。

 

ですから、当時はいただいたご回答の意味がよくわかりませんでしたが、「幸せ」のところを「思うように生きられる」と置き換えてみると、意味が分かりやすくなると思いましたので、掲載しておきます。

 

 

 

やわらかいお祈り

 

私は幸せでありますように

私の悩み苦しみがなくなりますように

私に悟りの光があらわれますように

生きとし生けるものが皆幸せでありますように

 

 

 

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「エゴ」の意味について

 

「エゴ」という言葉には、以下の2つの意味があると考えています。

 

○「自他の境目」

 

○「全体性の働きに対する損ない度(歪み度)

 

 

 

「自他の境目」は、自分とはこれである、という認識でもあり、肉体はひとつわかりやすいものだと思います。

 

「歪み度」に関しては、全体性の大きな働きの中で、滞ったり濁ったり偏ったり、調和を乱し、全体性を存分に機能させなくしている状態です。

 

全体の調和を乱さないようになれば、エゴ(歪み度)を「薄くする」「無くす」という言い方は可能です。

 

覚醒をしても肉体は無くなりませんので、誤解が生じやすいのではないでしょうか。

 

「エゴ」という言葉がどういう意味で使われているのか考えるといいと思います。

 

 

 

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現状維持と100%

昨日いらしてくださった方から聞いたお話です。

 

例えば会社の売上が今年3000万あったとします。

 

「じゃあ、来年も3000万売上たてれたらいいね」じゃだめですよね、ということを言われていました。

 

そこから関連づけてのお話になるのですが、現状維持で100%を維持すること自体は悪くはないと思うのですが、そこには成長がありません。

 

これから世の中が次元上昇していく中で、現状維持は相対的に世の中に対して下降しながら離れていく方向になるということを、以前どこかで書きました。

 

となると、これまでは現状維持でも許されていたものが、今後は成長しないと、ということになります。

 

そのイメージとして最初のお話がイメージしやすかったものですから、ちょっと書き留めておこうと思いました。

 

 

 

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不足やらなにやらについて

不完全なことにたいして、足りなかったり未熟なところを補おうとするのが、幸せだとする。

 

しかし、不完全でないことに対しておなじことをすると、力を奪うことがある。

 

いわゆるお節介や善意の押し付け、先まわりした指導などはそれにあたる。

 

足を怪我して満足に歩けないとき、車に乗せてもらえばありがたい。

 

しかし、普通に歩けるのに車ばかり使えば、足は衰える。

 

空腹を満たすためには食べ物が必要だし、喉が渇けば水がほしくなる。

 

生活していくにはお金が必要で、ことを成すには学ばなくては、と、それぞれの段階で思うことや感じることは違うかもしれないが、不足を感じたら補おうとする。

 

食べ物や知識やお金、それぞれを互いに補い合いながら今は生きている。

 

そんな生き方は嫌だから自立するんだ、と言っても、自然から離れることはできないし、人との関係性で自立をしようとしても、その境涯に至っていない身の丈以上のことをしていたら無理がある。

 

無理とはありのままではないということ。

 

ありのままの自分ではない、偽りやごまかしのウソの自分であろうとすること。

 

そうありたい、と頑張ることは悪くはないから、不完全さを認めて意欲を損なわず取り組み続けられるなら、そこにはウソがでてこない。

 

自覚するといいのは、不足を生じるような自分である、ということ。

 

そこを認めたら、補われたときに感謝の気持ちになる。

 

お腹の不足が解消され、財布の不足が解消され、知識の不足が解消され、経験の不足が解消され、感謝の気持ちがでてくる。

 

衣食足りて礼節を知る。

 

そして感謝の気持ちが出た時に感謝のお祈りをすると、自分の気持ちにウソがない、思いと行動が一致した深いお祈りとなる。

 

一度に考えられることは一つだけ、一度にできることも一つだけ。

 

一番大事だと思うから行動に移しており、それが深いお祈りであれば、行動の先にある結果や運命がどうなるかは自ずと見えてくる。

 

運命は自分が作っている。

 

 

 

過剰なサービスや行き過ぎた気遣いなどは、人の力を奪うことがあり、楽をしたい気持ちがあれば依存になっていく。

 

不完全さを知る前に便利さばかりに慣れてしまうと、補い合う考え方がよくわからなくなるのではないか。

 

ある程度限界を知ることは大事で、身の丈を知る意味でもそれなりの苦労はしたほうがいい。

 

苦労しなくて学べるならそれでもいいが、ある程度物事がわかるレベルでないとおそらくそれはできない。

 

 

 

自他の自由を奪わなければ、あるものはなにをどう使ってもいい。

 

自由を奪ったり意欲を奪うような全体性を損なう使い方をすることが問題。

 

だから全体性を損なわないためにも、まずなによりも全体性でものを考えるようにするといい。

 

すべてがそこに含まれているから、これまで得てきたもの全てもそこに含まれ、なにも否定しなくていいし、全てがつながってものを考えられるようになっていく。

 

すべては全体性でおきていること。

 

 

 

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全体性を知ってほしい理由

 

覚醒していないのでわからないこともありますが、まず何よりも「全体性のなかには存在するものごと全てがある」ということを考えてほしいです。

 

「全て」ですから、いいもの、わるいもの、素敵なもの、くだらないもの、優れたもの、愚かしいもの、無駄に思えるもの、なんでもあるわけです。

 

それは私たちそれぞれが学び、体験したものごともすべてがある、ということでもあります。

 

全体性を意識するようになってから驚いたのは、どんな理屈も必ずどこかで繋がりがあることがわかるようになった、ということです。

 

まだ私自身は学びの途中なので、すぐに繋がりを見出せないこともありますが、それでも真剣に考えたなら必ず答えは見えてくる、と信じられるようになりました。

 

様々な理屈はあれども、その繋がりまでは見いだせていないゆえ、皆が迷い、時に責めたり後悔します。

 

全体性の中にあるものを、平仮名を例に考えてみました。

 

「私はこれまでの人生で、『ら』『れ』『く』『だ』『し』を経験してきた。

 

しかし、なにも意味のない人生だった。

 

特に『し』はひどい経験で、今でも許せない。」

 

と考えていたとします。

 

しかし、そこで全体性を踏まえて考えた時、すべては存在していて必ず繋がりがあり、その繋がりから意味がわかる、と考えると、『ざ』という言葉を加えて繋がりを考えてみてはどうだろう、と思いつきます。

 

すると『しだれざくら』という一つの言葉ができあがり、やってきたことの意味を見出すことができます。

 

なにも否定する必要がありません。

 

学びにおいても、なにか新しいことを学ぶと「今までまなんできたもは間違っていた」と否定することがありますが、そんな必要はなく、それぞれを活かして、不足を補いながら繋げるだけなのです。

 

誰も、なにも、否定する必要はなく、その存在全てを認めることで全てが動き出します。

 

先週土曜日に私が見た『ン』は、最後の一文字です。

 

それが何を指しているのかはわかりませんが、これまで欠けていた最後の1ピースがはまった、という意味だったようです。

 

それがないから、先に進まない、全てが繋がらない、そういうものでした。

 

それがハマり、全てが動き出します。

 

流れ星は、その流れを表しており、いよいよ始まる、という意味だったようです。

 

教えてくださった方がいての理屈ですが、ようやく腑に落ち、これからわかりやすくお伝えできるようがんばります。

 

この理屈は否定などによって意欲を損なったり、人の不幸を喜ぶ方達にはひっくり返せないものです。

 

否定によって意欲を奪ってきたものにとって、否定できない、それどころか全肯定されてしまっては、意欲を奪うどころではなくなります。

 

今の時間に校正していますが、朝この理屈の概要がつかめた喜びのまま書いた文章をほぼそのまま残していますので、わかりづらいものとなってしまい申し訳ありません。

 

今思うと、朝は頭の上が軽く開いていたんでしょうね、どうあってもポジティブに意欲にあふれてしか考えられない状態になっていました。

 

濡れないように小走りにかけていく猫を見ただけで本気で笑っている自分に、「ついに壊れたか(笑)」と思っていました。

 

いまは落ち着いていますが、いい体験ができています。

 

理屈については、ようやくたどり着いた感じです。

 

また少しずつ皆さんにわかるように書き連ねていきます。

 

 

 

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今日も飽きずに全体性

 

タイトル通りで、今日もそんな感じの内容です。

 

このところいろいろ書いていますが、エゴ(部分)ではエゴを越えた全体像をつかむことはできませんので、個々の段階に応じた解釈でいいと思います。

 

ただ、想いが運命をつくる、という仕組みがありますので、できるだけ真剣に考えていただいた方が、よりきちんとした解釈になるはずですから、その点を意識してください。

 

シンプルに「全体性はある」と思い続けていれば、その人にあった答えがインスピレーションとして浮かぶようですので、ここに書かれているのは私の見方として考えるようにしていただくと、無理が無いと思います。

 

 

 

全体性とは、すべては一つである、ということ。

 

存在するあらゆるものが全体性にあり、私たちもまたその内に含まれる。

 

過去や今はもちろん、これから存在を確認されたり活用されるものや仕組みもすべてがある。

 

だから今ここという話になるのではないか。

 

全体性を構成する存在である以上、無くなることはない。

 

しかし、形を変えることはあるかもしれない。

 

エゴでとらえれば消えるように見えるし、全体性からみれば形を変えただけになる。

 

だから、全体性から考えるようになると無くならない。

 

私もあなたも、全体性という存在の中で永遠ともよべる時間を存在し続ける。

 

どんなに親を恨んでも、肉体で生まれてくる以前から私たちは存在し、どんなに悔やんでも、その子はお腹に宿る以前から存在している。

 

「否定」は「無いことにしよう」とすること。

 

無くならないものは消せないし、消せないものは否定できない。

 

どんなに否定し続けたとしても、存在を無くすことなんてできやしない。

 

自分を無くそうと責め続けても、自分すら消すことができない。

 

存在を否定することなんて、誰一人としてできるものはいない。

 

だから、まず存在をすべて認める。

 

全体性がある、と思うようにする。

 

あるものの中で何を選ぶのか、その方向性が小さな私たち自身なのかもしれない。

 

それは運命を創造し続けているということ。

 

なにも消すことができない、だから私たちは神に存在することを許されているといえるのではないか。

 

「存在していいんだ。

 

消せないから否定なんてできない、私たちは存在していいんだ。」

 

今回初めて「自分が存在していいのだろうか」という疑問を無自覚無意識に抱き続けてきたことに気づいた。

 

そして、安堵した。

 

誰かを傷つけたり、自分が傷ついた、と思うのは、この自分の存在への疑問があるからではないか。

 

やっぱり存在してはいけなかったんだ、と存在を許してくれていることを信じられなくなるからではないか。

 

「だれも私を否定する(消す)ことはできない、だったら思うように生きてみたい、生きていきたい、自由をもっと感じたい!」

 

あるものはなんでも使っていいのなら、創造し続ければいい。

 

創造は運命であり、やったことの結果の積み重ねである。

 

因果応報によって、喜びと共に創造し続けたい。

 

エゴに線引きされた不完全な私だが、お互いに助け合いながら生きていけば、限られた寿命のなかであっても創造し続けていける。

 

全体性の流れに溶けこんでいったとしても方向性を持ち続ければ、全体性を損なわない大きな流れの中の小さな流れとして存在し続ける。

 

小さな流れは、ある意味個性であり、自他の境目としてのある段階のエゴである。

 

思いの強さが、流れの勢いとなり、全体性の中で影響しあいながら流れ続けていく。

 

おそらくその流れはビッグバンから始まっており、原初の思いは、ゆらぎの中でとことん楽しみ味わい尽くす、であるような気がした。

 

 

 

今日もわかりづらい感じですが、一応書き留めておきます。

 

 

 

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変化の自覚

自分の変化を自覚することについて、です。

 

全体性への方向性を出している場合、その成長や変化の先は「ありのまま」に向かうわけですから、どんどん普通になっていく、という感覚がある意味わかりやすいかと思います。

 

ただ、腑に落ちるような気づきがあると夏至の私のような感じにもなるとは思いますが、以前に比べて落ち着いてきた、穏やかになってきた、生きやすいと思えた、そういうことを自覚できたならとりあえずOKです。

 

不完全な私たちですから、なにか過ちや思い違いなどに気づいたらその時に修正すればいいので、大きな方向性がでていれば修正もかけやすくなります。

 

こうじゃなきゃ、と思いこんでしまうと、「あの人(だい)と同じ体験をしていないから駄目だ」というように否定しかねません。

 

その方の段階に応じた理解というものがあり、それは人それぞれです。

 

そうしたそれぞれもすべて全体性の中に含まれているものであり、なにも否定する必要のないものばかりです。

 

細かなことを気にしだすと返ってその方向性が分かりづらくなることがあります。

 

隅々まできちんと考えられるようになるのも、軌道修正を繰り返しながらその方の無理の無い範囲で、段階的に目指していけばいいと思います。

 

 

 

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好き・嫌い

自由な生き方は、思うように生きられることであり、好きに生きる、ということでもある。

 

「好きに生きる」というと、「好き勝手」と解釈してしまいがちだが、「全体性を損なわないエゴ」で好きに生きることと、「歪んだエゴ」で好きに生きることでは違いがあるので混同しないよう注意する。

 

「ありのまま」の解釈も同じで、全体性を損なわないエゴが望む「ありのまま」に至るには、日々のやるべきことに対する取り組みを限界までやって身の丈を知り、自ずと定まる覚悟で好きに生きようとすることなので、命を大事に生きようとする姿になっているはず。

 

歪んだエゴが望むありのままは、自分の成長を求めず楽して生きたい、なのでまったく別物。

 

思うように生きる、好きに生きる、などのそうした「思い」や「好き」が自分の大事な方向性になる。

 

なにかを選んだらその他を否定するわけではなく、全体性としてずっとあるものの中で、今はそれを選ばなかった、一番大事とは思わなかった、一番必要とは考えなかった、ということ。

 

だから、嫌い、と表明することは、否定ではない。

 

存在を否定しようとしているのではないか、と考えてしまい「嫌いといえない」と考えてしまいがち。

 

しかし、自身の中で好き嫌いを自覚しないと方向性が出しづらくなる。

 

互いに葛藤を生じずに、そこをはっきり伝えあえるようになることも、これからの課題。

 

相手の理解が得られないまま一方的にいうと、カルマが増えることもあるので、よく考えて口にしなくてはいけない。

 

「あなたのそれはそれでいいけれど、私はそれは好きではないからこちらを選びます」

 

でいい。

 

「こっち来るな!あっち行け!!」

 

と言いたくなる存在もいるけども・・・

 

相手が嫌がることをしない、というのは自由に生きる上でのお互いのマナー。

 

弱肉強食で好き勝手されてしまうとそうもいかないが、意思表示や態度の表明は自分であるためには大事なこと。

 

 

 

ちなみに関係のない話題です。

 

北海道に行って私の妻は意識レベルが上がったと感じていますが、その主な原因は超高い絶品焼肉を御馳走になって気分がよくなったことがきっかけだというのは、ここだけのお話。

 

衣食足りて礼節を知る、これ本当です!大事なことです!!(笑)


 

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「軌道修正」を取り入れる

これまでなにごともまっしぐらに突き進むタイプだった方が、夏至あたりから「その都度方向を変えていけばいい」という風に考えられるようになったようです。

 

こうした変化も、今後の成長をよりスムーズにするため重要です。

 

柔軟性が増していますよね。

 

 

 

写真は娘作「ぞうさん」です。

 

 

 

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メモ

今朝の寝起きに浮かんだ言葉です。

 

 

 

良識とは、当たり前のことが当たりまえにできること。

 

整理されたエゴであり、「自ら」である「すべて」となじんだ状態。

 

全体性を損なわない考え方。

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コメントについて

おかげさまで、最近はこのブログを読んでくださる方も多くなり、コメントを書いてくださる方が増えてきました。

 

全てにコメントを返せるわけではありませんが、みなさんの学びになるようなものはできるだけ返していきたいと思っています。

 

また、わたし自身が1年前と比べて成長した実感をもっており、今に至る過程として表現の稚拙さや雑な面もある中でブログを書き続けたことが、一つ成長の要因だと思っています。

 

コメントを書いてくださる方はもちろん、迷っている方もここに書く際は割と勇気がいるかもしれませんが、等身大の自分を知る機会にもなりますし、考えを整理する過程として考えて書くことで自身の成長につながることもあります。

 

他の方の書き込みを通して学ぶことも多々あります。

 

私と妻の経験の違いがあっても、それぞれの文章に良さを見出して学びにつなげてくださっている方たちもいらっしゃり、他の方の自由を奪ったりするようなものでなければ、書ける方は今後も書き込んでいただきたいと思います。

 

質問にもできる範囲でお答えしたいと思っていますが、重要なことは「備忘録」などにある程度書かれていますので、まずそちらを読んで理解に努め、自分なりの考えをまとめたうえで質問していただくと、より一層その方の理解は進みます。

 

共に学ぶ、というスタンスを大事にしていただき、他の方がわかるように書くことも意識してみて下さい。

 

それも自身の理解を促してくれます。

 

細かなことにとらわれるとかえってわかりづらくなりますし、常にやり続けることは不可能ですから、出来る範囲でざっくりとでも構いませんので理解に努めてみて下さい。

 

 

 

昨夜、杉並区を震源とする地震がありました。

 

自宅で感じたのは単発の震度2程度の突き上げるような揺れで、「大きな扉が閉じられたような衝撃」という印象です。

 

私個人の勝手な妄想かもしれませんが、今後の展開についてエゴにとっては喜ばしくないイメージがあり、出来る限り早めにご自身のレベルアップをしておくことをお勧めいたします。

 

「平常心ってどういうことだったっけ?」

 

「でも聞ける状況にはないからどうしよう・・・」

 

なんてこともあり得ます。

 

自分で考えればいいだけなのですが、そうした習慣も普段から身につけておかないと急にできるものではありません。

 

なにが一番大事かは人それぞれですから、ここで学べることがあれば活用してください。

 

 

 

写真は息子作、チョウチンアンコウです。

 

 

 

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心がけの一つとして

いろいろ考えると分からなくなるので、なるべく短い言葉にまとめたものの一つです。

 

 

自分にも他者に対しても、不幸(思うようにいかないこと)を願わず、喜ばないようにしよう

 

 

 

と、心がけています。

 

 

 

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いいものはいい

前も書いたような気もしますが。

 

エゴであっても本心であっても、全体性を損なっていなければ、いいものはいいと考えます。

 

エゴと本心の区別がつかなくても、あまり問題にはならなくなっていきます。

 

違っていたら、気づいた時に軌道修正するだけです。

 

誰が言っているか、よりは、なにを言っているか。

 

鵜呑みにもなるので、あの人が言っているから大丈夫、とはしないことが大事です。

 

エゴを抱えている以上、間違えることもあるのは当たり前のことです。

 

そのために、道理や理屈を勉強していると思っています。

 

 

 

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BBSのNo.2891について

BBSでの他の方へのご回答でしたが、これまでここで書いてきたことの自分の整理にもなると思いましたので、私なりの解釈を書いてみました。

 

よければ読んでみてください。

 

 

 

2016/7/9 No.2891

 

月読之大神のお言葉です
「まずそれが正しいのか正しくないのかといった知的な判断と言ったらいいのかしら」
「それがあなた達は出来ない状態に初めからいるっていうことを分かっていなければいけないね」


 

これはpapasさんが先日の「ブログよりもコメント欄のコメント欄でわかりやすく書いてくださっていました。

 

エゴでは完ぺきに物事を理解したり判断することはできない、ということをまず自覚していなくてはいけないということ。

 

 

 

「で、それをね、やはり判断するためには自分を見つめなければいけない」
「自己観照という形は取らなきゃいけない」
「それを反省でもなんでもなく、最初に自分が何を思っているかということを自分を誤魔化さずにただ単に認めること」
「そこから始めなければいけないね」
「こういう思いを思っちゃいけない」とか「これはいけないことだ」とか「こういう思いを思う自分は傲慢なんだ」ということよりも先にまず「自分が色んな思いを持っている」ということを認めなきゃいけないよ

 

・自分の行動や言動に考え方などを見つめることで、エゴ(思い込み)が在ると知ること、認めること。

 

良い悪いの判断が働く前段階、そういうものがあるというふうに存在を認めること。

 

 

 

「そこから始まる」
「そこを誤魔化してしまうと全てが曇ってしまって直観知どころじゃなくなってしまうからね」
「カルマを積むことだけでしかないから」
怒りも強欲な思いも、嫉妬も、さもしい思いも、情けない思いもエッチな思いも浮ついた思いも、傲慢、悲観、そうしたものを全部認めたうえで「あ、それが今の自分なんだ」と全部認めたうえで、
「じゃあ何が出来るのか」
という形をとらないと直観知もへったくれもない

 

・エゴの存在を認め、そこに問題点や課題としての歪みをみつける。

 

「誤魔化す」とは、エゴの存在を認めず、自分には問題(歪み)が無いということにすること。

 

 

 

「やっぱり自分の軸というのをキチンと確立すること」

 

・なにを大事にするか、どういう方向性で取り組んでいくのか決めること。

 

素の自分を認めることで歪みも認め、そこからどうやったら良くしていけるのか、少しでも正確に物事が分かるようになるためにはどうしたらいいのか、を考え自分なりの結論を出す(確立する)。

 

それが方向性をだすこと。

 

(インスピレーションや見守ってくださっている存在たちからの助けは「フォロー」であって「肩代わり」ではないので、まず自分から方向性を出さないとフォローを得ることはできない。ああしなさい、こうしなさい、で本人が方向性を出す前に指示してしまうと、主体性を奪ってしまう。)

 

 

 

「それにはまず今の自分の立ち位置をキチンと見定めること」

 

 

 

・エゴ(不完全さ)でエゴ(不完全さ)をキチンと理解することは難しいため、これはけっこう大変なこと。

 

歪んだ考えで歪みを見ても、より歪めてしまうかもしれない。

 

上に書かれていたように、見定めるために「じゃあ何が出来るのか」という発想でものを考える。

 

エゴの歪みを少しでもわかりやすく把握するために、より大きな視点でものを考えるという方法がある。

 

それが全体性をつかって考えること。

 

より歪みの無い状態(全体性)で歪み(エゴ)を見れば、歪み(エゴ)を歪み(エゴ)として認識しやすくなる。

 

「(歪んだ)思いこみ」がある、とわかるため、立ち位置がわかりやすくなる。

 


「そこから始まる」
素の自分というのを認識するということ
お知らせとか何とかそういうものは二の次

 

・ここでいう素の自分とは、「歪んだエゴ(考え方、思いこみ)」も「歪みの無いエゴ」も両方抱えた状態。

 

 

 

「まずそこがキチンと出来ていないから直観知ということを疑うんだよ」
「というか曇っていて分からない」
素の自分が分かっていれば自ずとわかるということ
「(自分を)誤魔化すということは自分の直観知の領域を曇らせていることなのよ」
「自分を認められないということはね」

 

 

 

・曇っているのは思い込みの歪みによるもの。

 

自分の考え方に癖がある、思い込みがある、そう気づいていれば「情報の読み解き方」にも書いたような考え方で誤魔化すことなくエゴを薄くしていけるため、全体性ともつながりやすくなりよりキチンとしたインスピレーションを得やすくなる。

 

自分は歪んだエゴを抱えた状態なんだ、と認められないうちは、そうした曇りが晴れることはない。

 

「誰かのせいにする」ということも、自分の素の状態での歪みを確認しようとしない、ということですから、やはり曇りは晴れないでしょうね。

 

 

 

多少端折ってありますが、以上が私なりの解釈です。

 

 

 

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全托への道

思い(言葉)⇒ 行動 ⇒ 結果(運命)

 

という流れで考えると、行動が結果を生みます。

 

「ベストを尽くした行動」の結果を神様に一任するのが全托。

 

(ベストを尽くした、とは自分のすべてを出した、ということ。)

 

全托は「不幸を願う」を少なくすることでできるようになっていくと思います。

 

 

 

写真はスピノサウルスです。

 

手抜き、ですね。

 

 

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自他一体

先日コメント欄にて読み込みの甘さを指摘させていただきましたが、自分自身についてもしっかり該当していることを痛感した次第です。

 

・「学びの整理として

 

・「質問しました

 

・「ブーっ! 」

 

なども改めて読んでいただくといいかもしれません。

 

書いた本人も復習します。

 

 

 

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メモ 3つの繋がり

・陰始度

 

・地球との約束「幸せになります」

 

・最終試験「他人のために祈れるか」

 

 

 

上記の3つの繋がりが、なんとなくわかってきた感じがしています。

 

3つ目がどこに書かれていたのか思い出せません。

 

BBS上だったと思うのですが、どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけますか?

 

 

 

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タイタンさんへのコメント

 

ここ数日、家族で発熱して休んでいました。

更新が滞り失礼いたしました。

 

コメント欄に書くには長くなってしまいましたので、こちらに書かせていただきますが、#10のコメントをいただくまでのタイタンさんに向けたものですので、その点だけご了承ください。

 

 

 

タイタンさん 

 

コメントを返していただき、ありがとうございます。

 

現状非常に厳しいと思い私なりに悩みながら文章を書いていたのですが、書き終えた頃にタイタンさんからの再投稿(『自他一体』コメント#10)があり、思わぬ変化にとても喜んでしまいました。

 

 

 

そしてこれまでのタイタンさんのコメントを読み返したのですが、そこから受ける重く曇った印象がずいぶん軽くなっていることに驚きました。

 

課題をクリアしたとはいえませんが、エゴが薄くなり、これまでの状態から抜け出す方向性が出つつあるようです。

 

私自身のコメントの厳しさもいつもではありえない内容ですが、書いているときはやはりタイタンさんの奥に隠れているエゴがあぶりだされているかのように見えていたため、厳密なものを求められただけの意味がある事だったのではないかと思います。

 

 

 

UENさんの内容(『自他一体』コメント#9)も非常に分かりやすく参考になった方が多いと思います。

 

私の下の内容に出てくる「守破離」の話は、師匠と弟子の関係で主に重視されてきたものですから、UENさんのお話の方がより一般的でわかりやすいかもしれません。

 

自分の立ち位置をUENさんの1~6の中でどれに該当するか考えていただくといいと思います。

 

 

 

私の考えていた文章もみなさんの参考になるかとおもいますので、多少厳しめですが掲載しておきます。

 

タイタンさんご自身にとっては、意識レベルの上がっている今の方がお話をより素直に聞いていただけると思います。

 

巧妙に隠れているエゴに気づくのはなかなか大変ですので、見つけた時に取り組む事が大事です。

 

 

 

余談ですが、ここには内容を掲載しませんがコメント欄に書き込みのあったpapasさんやUENさんの他にもタイタンさんを気遣うメールや連絡を下さった方達が数人いらっしゃいます。

 

ここ数日更新ができない状況でしたが、その間にタイタンさんに気づきを促すアプローチもしっかりなされており、ご自身がそれをきちんとキャッチできているため、ここで軌道修正がなされつつある一つの正念場だと思って今の取り組みを続けて下さい。

 

様々なアプローチで変化を促されている意味がそれなりにあり、あとが無い状況でおそらく集合魂を代表してこの場にいらしてくださっていますから、ここは大きな変化(成長)を求められている場面ですので、性根を据えて取り組まないと心底後悔すると思います。

 

 

 

以下の文章には私のエゴが強く出ているように見えるところもありますが、事実を事実として認識することはエゴとは異なり、ありのままを認める過程においても大事な事になりますので、そのあたりも考えるようにしていただくといいと思います。

 

エゴを無くす、という発想から過剰に考えすぎて潔癖になることもあります。

 

エゴだから、悪魔だから、悪い人だから、と事実を事実と認めることができなくなり、良いものは良い、悪いものは悪い、ということが分かりづらくなることがある気がします。

 

 

 

「誰が言ったか」ではなく「なにを言っているのか」でものを見ないと、大事な事を見落としてしまうこともあります。

 

詐欺や陰謀、企業の都合に合わせた情報などについて話を聞いたことがありますが、なぜだまされるのかといえば、そこに真実が数%でも混じっているからなのだそうです。

 

そうした情報は非常に力を持ちますので、そこにひかれてだまされてしまうのだとか。

 

 

 

話がそれました。

 

以下、タイタンさんへのコメントです。

 

 

 

 

 

私も不完全なエゴですので、エゴが何なのかをすべては理解できていません。

 

しかし、断片的には分かることもあります。

 

その断片の一つですが、エゴの特徴として「正当化する」というものがあります。

 

 

 

変わりたい、という想いを実現するには、正当化ではなくこれまでの自分の考え方を変えなくては変われません。

 

これまでも言葉として出てきていますが、「方向性をだす」ことによって変化ははじまります。

 

なにを大事にするか考え、決意し、取り組む、ということです。

 

 

 

私自身は未熟で幼い面もあるため、五井先生のお祈りはもちろんですが、これまでも今現在も優れた方の考え方や行動を「真似て」取り組みを続けています。

 

BBSに少し前に掲載されましたが、私は覚醒の一瞥体験とも呼べるものを体験しています。

 

完璧とは言いませんが、取り組みや考え方に間違いがあれば、まぐれでそういう結果がでることはないと思っています。

 

 

 

ここでお伝えしてきている内容はそうしたもの(取り組みや考え方)であり、それに基づいて一度は結果が出ていますので、やはりそれなりの根拠にはなると思います。

 

真似るというのは生きる上で子どもが親のやることをまねたりするのはもちろん、習いごとや仕事に「道」とつくようなあらゆるジャンルで行われていることでもありますが、私が真似る理由は、手本とするその方(自分よりものが分かっている方)の考えていることすべてを完璧に理解できないからです。

 

できることからやらないと意欲はでませんし、結果も伴いませんので成長も滞ります。

 

 

 

優れた方、特別な方、そうした方たちができるやり方なら他でいくらでもあるとおもいますが、ここではやる気があれば誰でもできるやり方としてお話してきている内容ですので、エゴの強い方には面白みのない魅力のない意味のない話ばかりかと思います。

 

私も途上でありきちんと身についていないことをお話していますので、お伝えする難しさは折に触れて感じています。

 

それぞれの事情でなかなかご来院できない意欲のある方の能力を出来るだけ伸ばしたい、そう思い書いているブログやコメントですので、今回は長い文章ですが今しばらくお付き合いください。

 

 

 

タイタンさんがおっしゃるように「文字で、自分が意図していることを相手に正確に伝えるということは、本当に難しいですね」、はその通りだと思います。

 

私たちはエゴという不完全な状態である以上、エゴを越えるものへの理解は完璧にはできませんし、言葉も完璧に使うことはできません。

 

完璧に使えない以上正確に物事を伝えられませんので、少しでも的確な言葉や相手に伝わる言葉を選ぶことが大事になります。

 

 

 

全体性をエゴから見るイメージですが、大きな地図をルーペか虫眼鏡で見ている、というのはどうでしょうか。

 

ピントを合わせると近くしか見る事ができませんので、全体を見ようと思ってもぼやけてよく分りません。

 

そこでルーペや虫眼鏡を外す(なくす)という発想になってしまいがちですが、それらを使わないと見えないよう近視眼的状態ですから、段階的にできるやり方があればその方がより確実だと思いますので、ここでは度数を徐々に変えて視力を良くしていただき、ふつうの眼鏡やダテ眼鏡くらいになっていく過程を「エゴを薄くする」と考えていただくといかもしれません。

(※この場合、完全覚醒は裸眼でしょうか。エゴが極端に強い方の中には、電子顕微鏡という方もいるかもしれません。)

 

 

 

私は物事の順序の大切さが、ここ1年ほどでようやくわかってきました。

 

例えば、「守破離(しゅはり)」という考え方をご存知でしょうか。

 

「守」とは、より歪みの少ない考え方や、物事を分かっている方の考え方をまねる事だと思います。

 

 

 

「自分なりに」というのは、ここでは「破」にあたります。

 

つまり、「守」の段階をクリアしてから取り組むべきものです。

 

基礎が身に付かないまま応用を利かそうとすると、土台が歪んだままではその上に積み重ねるものも歪んでしまいます。

 

 

 

通常はきちんとした道筋でないと、思うような結果に至ることは困難です。

 

しかし理解の追いつかないまったくの初心者でも、その道に長けている方の話や指導を仰ぐ等して、ある段階まであがれるはずです。(途中であきらめると、そこまで到達できません)

 

ある段階にいたって私たちは指導者の意図や考えが分かるようになり、自分で創意工夫することで2流から1流をめざすような更なる進歩を目指すことになります。

 

 

 

この時に大事なのは、その方に成長する意思があるかどうか、ということです。

 

そういう意思がなければ、教えても伝わりませんし、嫌がる相手に無理やり押し付けても自由を奪うことになります。

 

ここに一生懸命書き込んでいただき、変わる気もあると御自身でもおっしゃってくださっていますので、私はこうしてコメントを書かせていただいています。

 

 

 

不完全ゆえものごとを完璧に理解することができないので、よりものごとをわかっている存在に聞くというのは、成長を求める際に重要な事です。

 

まちがった言葉でまちがった取り組みをしてもおもうような結果はでませんので、より歪みの少ない事柄を相手に正確に伝えるには、よりきちんとした言葉や表現などを選んだほうがいいわけです。

 

ですから、少しでも成長でき、結果もだしやすく、取り組みやすいこともあり、真似るということを人はあらゆるジャンルである時期まではしているのだとおもいます。

 

 

 

「守」の段階で自分なりの言葉で言うということは、少なくとも指導をしている方よりも間違った言い回しになっていることが大半です。

 

まちがった取り組みは、まちがった結果に至ります。

 

そうした場合に軌道修正することをここではお伝えしていますが、今回はそのことを指摘されて自分の修正箇所が分かったものの、言い訳などの正当化が徐々に顔を出してすっきりしませんでした。

 

 

 

言葉に出す、ということは、なにかしら大事だと思っているという事で、なんとなく補足や正当化のように書いているところにエゴがひっそりとたたずんでいるようなことがよくあります。

 

覚悟が決まるにつれ余計なものは取れてシンプルな考え方になり、そのシンプルな考え方に照らし合わせてみる事で、他人のエゴが良くわかるようになります。

 

一度に考えられることは一つだけ、と何度か書いていますが、課題が見つかって取り組む意思があるならば、言い訳や正当化ではなく、「自分のコメントを見返してみます」「まずやってみます」「指摘された内容を一度考えてみます」という行動に移すコメントが本来ではないでしょうか。

 

 

 

タイタンさんの中では聞き入れる以上に正当化することが重要になることがあり、今回のやり取りの中ではエゴが猛烈に嫌がっている状態です。

 

必死に抵抗している状態に少しでも気づけたならば、「誰が」そう思っていたのか、いままさにテーマとされている観照者の立場で一度観察なさるといいかもしれませんね。

 

 

 

真剣に取り組めばエゴ(思い込みによる自他の境目)の駆け引き(考え方を変えたくない)などは二の次となりエゴの働きが弱くなるため、全体性ともつながりやすくなります。

 

そこからようやく全体性からのインスピレーションを得やすくなり、気づきもきちんとしたものが得られるはずです。

 

変わるために必要な事が分かるようにもなりますし、それに基づいて行動することで結果も出てきます。

 

 

 

「わからないなりに」というのであれば、先ほども書きましたが、まずはより物事をわかっている方のやり方を真似ることにより、理解の基盤をつくることがいいと思います。

 

自分の言葉で書くことが大事な場合もありますが、それは守破離の話にもあった順序にそってなされた時に意味をなすのであって、まちがったタイミングでまちがったことをしゃべることこそが「知ったかぶり」というものです。

 

それをわざわざ書いたのがタイタンさんのエゴであり、今回そのエゴの働きをお伝えすることで、なんとかそうしたエゴの歪みを解消していただきたいと思ってコメントを書かせていただきました。

 

 

 

自他の区別ももちろんそうですが、それとは別にエゴは思い込み、とここのブログでは何度か書いてきました。

 

思い込みは無意識でもあるため、なかなか自覚できません。

 

それを自覚できた時、歪みを解消する機会を得るのです。

 

 

 

歪みの解消によって、エゴ(歪み)で覆われた自身と全体性との調和が少し増していきます。

 

私は覚醒はしていませんのでドングリの背くらべではありますが、いまは私(だい)の方が分かっている、と思っていただけるならば、なんとか私の伝えていることをわかろうとして、御自身の方向性を決めて下さい。

 

 

 

私に質問してきているということは、私の方がものを分かっていると考えていただけているからでしょうから、ある程度自分よりわかっている人間がわかって伝えていることを、気づけていないこととはいえ「自分はそんなつもりではない」と言い返せてしまえる幼さになんとか向き合っていただきたいです。

 

変わる気がある、と言いながら、態度は正当化することによって「変わる気はない」「拒否」となっています。

 

自分の強い思い込みに向き合い、そうした考え方を変えていくことがエゴを薄くする取り組みであると私は思っており、「エゴを薄くする」は宇宙全史で何年も何度も繰り返し言われ続けてきたことです。

 

 

 

それを受けての御自身の学びの今の結果を、今回キチンと受け止めないと今後は相当厳しいと思います。

 

本来こういう厳しい内容で書くことはあまり好きではありませんが、私なりに意味を感じて書いていることです。

 

タイタンさんがある一定の段階に至れるよう頑張っていただけると嬉しいです。

 

 

 

話をもどしますが、お祈りにしても五井先生という物事がわかって信頼のおける方が「これいいよ」と勧めてくださったものを、我々は意味が分からないなりに真似して取り組んでいると思っています。

 

「愛」や「赦し」や「消えていく姿」などの意味が理解できていなくても、わからないなりに続ける(真似る)ことで少しずつ理解できることが増えてきてのではありませんか?

 

タイタンさんはお祈りをずっと続けてきていらっしゃいますよね。

 

 

 

そうした実績が十分あるので「真似する」ということを今回お伝えし、タイタンさんにできることと思いお話しさせていただきました。

 

むくれず、腐らず、なんとか受け止めてくださることを願います。

 

 

 

長くなったので要点だけまとめてみます。

 

○私からのコメントに対し、エゴ(歪んだ考え方)が歪みを正当化して聞き入れようとしていない。

 

○「変わる」という方向性をだす。

 

○変わるための取り組みとして、いい考え方やいい言い回しをまねて続けてみる。

 

 

 

その上でなにかご不明な点は、またこちらにコメントとして書いていただけますでしょうか。 

 

 

補足です。

  

『「エゴ(不完全)が私」の私達では不完全であるが故に、全体性の方向が何かということは分かることは出来ないが、…』
ここのところが、私のモヤモヤの一つでした。
時々、重箱の隅っこが気になってしまい、そこから抜け出せなくなることがあります。

 

あちこち私の説明が不足しているとは思いますが、今回読み返していて重箱の隅などではないことで目に留まりましたので書いておきます。

 

全体性というのは自分(エゴ)より上位の意識にあたるため、自分より上の意識体の考えていることはわかりませんから、例えば修行中の弟子が師匠の考えていることを理解はできませんし、ブッダや五井先生の考えていることも私たちではなかなか理解できるものではありません。

 

守護霊さんの考えていることがすべて分かれば、守護霊さんと同等の意識レベルということになります。

 

こういう書き方でわかってもらえますでしょうか。

 

 

 

以上です。

 

 

 

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3つの繋がりについて

 

陰始度

 

地球との約束「幸せになります」

 

最終学歴「人(他人)のために祈れるか」

 

 (※ 「メモ 3つの繋がり」より)

 

この3つの関連性について最近思ったことがありました。

 

 

 

  1. 陰始度の解釈は「不幸を願う、喜ぶ」と私はしています。

  2. 宇宙全史第一巻、第9章「最後の接触」(P.541~)にある、人が地球とした命の約束が「幸せになります」とありました。

  3. 最終学歴「人(他人)のために祈れるか」

 

 

 

まず①と②については、無意識に様々な形で不幸を願ったり喜ぶ気質がほとんどの人に育まれていますので、ほぼ真逆の行為が蔓延しているわけですから、約束を守る方向は向いていなかったことがわかります。

 

また①と③については、①を選択しなくなっていけば「どうせなにかやるならいい方が・・・」となるため、人とのかかわりの中で、自分に対しても他者に対しても幸せを願うようになるのではないかと思ったのです。

 

そこまで単純ではないでしょうが、それでも日常生活で具体的に心がけるといいこととして「不幸を願わない」「幸せを願う」と考えるのであれば、日々の取り組みはずいぶん気が楽になると思います。

 

他にも大事なことはあるでしょうから、それは個別に考えていただけばいいので、とりあえずこう考えてみてはどうでしょうか、というお話でした。

 

 

 

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大きな方向性について

昨日、ある方とお話していて「あぁ、そうだよな」と思えたのが、大きな方向性についてです。

 

個々に考えていることは違いますが、わかりやすくウソがないのであれば

 

「生き残りたい」

 

という方向性は非常に明確だと思います。

 

これが正解、とか、一番良い、というものではありませんが、エゴベースで考えている身としてはわかりやすいのではないでしょうか。

 

 

 

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メモ 基本的な考え方

8月に入って早々、気象庁の誤検知で「東京で震度7(M9.1)」を速報で流したようですが、全国の予想震度分布図をみると広範囲に影響が起こるであろうことがわかります。

 

雷による誤検知だったようですが、改めて気が引き締まる感じがします。

 

雲を見上げると、夏という感じがしますね。

 

 

 

おかげさまで体調もだいぶよくなりました。

 

休み中に整理していた内容の一部を掲載しておきます。

 

 

 

以前宇宙全史で書かれていたことを思い出しました。

 

「全てはエネルギー」

 

なにか問題があるとすれば、そのエネルギーの歪みが原因であると考えられます。

 

本来の姿や正しい状態などを知ることで、歪みを歪みとしてわかるようになります。

 

そうすることで歪みをとるための正しい方向性がわかるため、まず何事においても「より正しいものごと(エネルギーの状態)」を知るように努めることが大事になります。

 

 

 

 

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身の丈にあった取り組み方

今回は先日のブログ「メモ 基本的な考え方」のコメントの補足になります。

 

私たちは覚醒を果たしていないエゴベースの状態で生活しています。

 

その中で「成長する」「よりよく生きる」という方向性を打ち出したとき、エゴの歪みを整理していくことで、それを促すことができます。

 

その歪みは、きちんとした状態と照らし合わせることでわかりやすくなるため、きちんとした状態、すなわち、正しい物事を知ることが重要です。

 

しかし、わたしたちはエゴという不完全さゆえ、完ぺきに正しい状態を知ることはできません。

 

ですから、「より正しい」を知ることが最善になります。

 

「より正しい」は「完璧に正しい」わけではないため、多少の歪みが混ざっている、ということです。

 

ですので、その歪みを見つけた時に軌道修正することで、少しずつ上を目指していけばいいのです。

 

不完全さを認められるとこれが理屈にあった取り組みとわかりますから、無理をするのではなくできるところからやればいい、と思えるので葛藤も少なくなります。

 

身の丈に合った取り組み方といえると思います。

 

いろいろ書き出すと長くなるので、今回はここまでにします。

 

 

 

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自信がとっても大事

 

先日のブログには「自信が大事」ということを書くつもりでしたが、いつの間にやら違う内容にすり替わっていました。

 

前にも書いた内容ではあるものの大事なところだと思いますので、よければ読んでください。

 

 

 

先日の「メモ 基本的な考え方」のコメント内容

 

『エネルギーが無いなりに知ろうとすることは、より正しい、にはあまりに頼りない理解しか得られないと思うかもしれませんが、・・・』

 

で、「あまりに頼りない理解しか得られない」と書きました。

 

 

 

ここで自分の取り組みに対する自信があるかどうか、自分のやっていることは正しいと思えるかどうかで、その先が変わります。

 

極端な話、アセンション方向とディセンション方向の違いになる、ということです。

 

(余談ですが、ディセンションしたければ不幸を願って行動に移す、アセンションだったらどうでしょうか。地獄に堕ちたら、やったことが返ってきただけなので、文句を言わないで反省すればOKらしいです。)

 

 

 

自信がないと「たいした理解ではないから・・・」「稚拙だから・・・」「誰でも考えることだし・・・」と勝手に卑下してしまい、そこから「深める」「続けていく」といったことをあきらめて取り組みを止めてしまうことがあります。

 

日頃の意識の向け方で、自分のできなかったところにばかり目が行っていると、自信は育まれません。

 

同じやったことの中にもできたことはあるはずです。

 

 

 

取り組んだなりの結果は出ているので、そこに目を向けて、(良い悪いの判断は外して)「今できる範囲でベストを尽くした」「ここまではやった」という自覚が大事になります。

 

「ここまでしかできなかった」が口癖になっていると、どんなに些細なことも否定的に見てしまいますし、どれだけいい結果を出しても、どこか斜に見て素直に喜べません。

 

ベストを尽くしたとしてもそのことが認められず、自分の取り組みに対して常に自信が持てなくなります。

 

 

 

ベストを尽くしていれば、誰に何を言われても胸を張っていられるものです。

 

平常心を揺さぶられるようなことが起きたとしても、ベストを尽くしてきたことで生じる自信があれば、過不足ない(偽り・ウソのない)自分を素直に認められるため、平常心を保つことができます。

 

不完全だから失敗もするし、毎回同じ結果が出せるものでもないのですが、そこを良く見せようとして素の自分とは違うウソを混ぜると、ウソがばれるのではないかと動揺して平常心を損なうことになります。

 

 

 

わかったふりや出来たつもりはその典型で、言い回しにそれがよく表れているので、丁寧に文章を見ていくと自分のエゴも見つけやすいのではないでしょうか。

 

そこが素直に認められるようになってから、目標を決めて達成できるよう取り組み方を考えると、意欲を無駄に損なうことなく集中して取り組めるようになるはずです。

 

結果も伴うようになっていきます。

 

 

 

それですぐに結果が出るとは限りませんし、毎回いい結果が出る保証もありませんので、軌道修正は都度必要です。

 

ただ、葛藤が生じない分、積み重なっていく経験は自信になります。

 

 

 

自分のやってきた実績を信じること。

 

 

 

自分の出来る取り組みで、一番調子の良い時の達成度が10個のブロック、どうにも低調で一番悪いときが1個のブロックとした場合、調子のいい時は最小単位の1個が10個積み重なっていると考えてみます。

 

1×10。

 

最小単位をおろそかにするとどうなるか。

 

歪んだ否定的な物の見方「1」個を10個並べても、歪んだ10個になってしまいます。

 

10個積み重なっても、どこか否定的に自分の結果を見てしまい、そこから上を目指す意識は希薄になります。

 

 

 

一方で同じ10個でも、できたことを素直に認める歪みの少ない最小単位「1」であれば、やった分だけ実績として認められます。

 

その積み重ねが土台となり、さらなる成長を積み重ねることができるかもしれません。

 

最小単位にあたる自分の一番調子の悪い時や、まったくの初めてで取り組み始めた時など、素直にできた分だけ認めて、できることなら喜べるといいですね。

 

 

 

意欲も沸いてくることがありますし、こうした考え方も陰始度「自分の不幸(思うようにいかない)を願う」に関連してきますので、意識的に取り組めるようになるといいと思います。

 

 

 

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雑記とお休みの御案内

 

一つの課題ですが、今後人からエネルギーを奪わないで、地球のレベルアップに合わせて自分たちも成長していけるかどうか。

 

 

 

波動が上がる、というのはなかなか実感として分かるものではないかもしれませんが、理屈からいうとカルマを増やせば重くなるわけですし、地球の波動が上がって精妙になると、自分がそのままであれば自分の波動は地球に比べて以前より粗く重いものになります。

 

つまり、動きづらい、生きづらい、思うようにいかない、ということですから、そうなればカルマの解消もより一層困難になります。

 

 

 

「まあまあ嫌なこと」が「とても嫌なこと」と感じるようになる、そんな感じです。

 

 

 

そこで「やってはいけない」「ダメなものはダメ」とエゴをキチンとコントロールできていないと、ツライ状況を自分以外のせいにして、自覚がないままカルマを溜め込むようなことをさらに積み重ねるかもしれません。

 

そうしたエゴのコントロールは、基本は自身のエゴの歪みを減らす、ということです。

 

 

 

夏至の頃の覚醒の一瞥体験を通して、存在するものはすべてあっていい、と思えました。

 

否定的な思いは「それを無くしてしまいたい」ということにもなりますが、私の体験を前提に考えると、それはあっていいものを無くそうとする歪んだ考えともいえます。

 

ですから、よりよく生きるために歪みを解消するのであれば、自身の歪んだ考えが対象となり、そうした考え方から見えてくる未来の人のあり方というものもあります。

 

 

 

話を戻して、カルマを自覚の無いまま増やしていけばどんどん悪循環に入り、背負いきれない負荷を四つん這いになりながら背負って生きていく、そんな感じがします。

 

しかし、自分のエゴの歪みや具体的な自分なりの不幸の望み方を穏やかな今のうちに把握できていれば、とっさの時にも対処ができます。

 

一度に考えられることは一つだけですから、歪みの少ない考え方や幸せを願う方向性を出していくこと(エゴのコントロール)で、そうした歪んだ思いの優先順位を下げ、消えていく姿にすればいいわけです。

 

 

 

自分を見つめることをおざなりにし「なんとかなる」と高をくくっていても、いざ混乱が始まった時には冷静に対処することは大変ですし、具体的なエゴの歪みを知らないということは、無意識に歪みが暴走することを許すことでもあり、カルマを増やす方向性に勝手に進んでいるかもしれません。

 

「まんべんなく揺らす」という言葉が何度かここ半年くらいに浮かびました。

 

最初は大地の揺れと思っていましたが、最近は「人の心なんだろうな」と感じています。

 

 

 

自分のエゴを見つめる、歪みに気づいた時の対処の仕方、そうした取り組みが結果として自分を成長させてくれる方法でもあるわけですから、なるべく早めに取り組まれるといいと思います。

 

日常生活の中での取り組みですから、地道なもので、他愛のないような些細なことも取っ掛かりとして目の前にあるかもしれません。

 

それにきちんと向き合えれば、前回のブログにも書いたように、その積み重ねは更なる成長へと繋がるでしょうし、おろそかにすれば、また違う方向性を選んだことになります。

 

 

 

気づいたところで軌道修正すればいいだけなのですが、それでも負荷が出来るだけ少ない段階でそれをしていかないと、やはり軌道修正することすら大変になるのではないかと思います。

 

最近思っていたことを簡単にまとめてみました。

 

 

 

明日から来週火曜日までお休みいたします。

 

10日(水)から再開いたします。

 

休業期間中のご予約・お問合せ等は、メールでのみ対応させていただきます。

 

よろしくお願いいたします。

 

 

 

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メモ 固定化について

死生観について、この3次元世界に意識のベースがあると、肉体が命であると考える傾向が強くなる。

 

しかし、全体性の働きにおいて命は無くならない、と考えられるならば、状態が変わるだけ、というとらえ方もできる。

 

全体性の働きを損なう、エゴの歪みの一つのあり方が固定化。

 

「これしかない」のような感じ。

 

視点を変えて見れることは、固定化を和らげることができる。

 

この肉体がすべて、という考え方を変えることができたなら、エゴがまた一つ薄くなる可能性がある。

 

 

 

写真は野沢菜おむすびではなく、石ころです。

 

 

 

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メモ 明晰性

まだキチンと書いてはいませんが最近お話している内容について、NORIさんも「雑記とお休みの御案内」のコメントで少し触れてくださっていました。

 

そのことについてある方とお話していたところ、宇宙全史の中でもそのことについて触れていたことを気づかせてくださり、確認してみるとP.348の最後の一文がそれにあたります。

 

この明晰性を獲得することの意味がお話していることとつながりました。

 

私たちは自分の歪みをとことん無くそうと思わないと、この明晰性は獲得できないと思います。

 

また機会があれば、整理して書くかもしれません。

 

 

 

明日は流星群が見られるそうですね。

 

来週は満月も見られ、にぎやかな感じがします。

 

 

 

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