意欲

褒める、認めることで、意欲は湧く。

 

責める、否定することで、気持ちは萎え、意欲は損なわれる。

 

不出来なことでも、やったことを認め、その上で修正や改善について伝えられたら、意欲は損なわれず、能力も伸ばしていける。

 

不出来なことを認めず、無視し、こちらがいいと思うものを一方的にかぶせるように伝えると、意欲は損なわれ、言いなりになり、自分がない状態になっていく。

 

上記は一つの例えです。

 

先日いらした方のお話を聞いていて、一つ一つの事柄についての理解がずれていたり浅かったりすることで、知識はあるけどわかっていない状態になっていることがわかりました。

 

私もそういう状態から抜け出しつつあるので、確認も兼ねてこうした事は書いていきたいと思います。

 

 

 

昨日、ブログ「妻へのメッセージ」にコメントをくださった方たちがいらっしゃいますので、よければそちらもご覧ください。

 

 

 

インスピレーション

気づきや直感と呼ばれるものがあります。

 

以前は、ボーッとしていると、不意に気づきがあるような気がしていました。

 

だから、一生懸命ボーッとしていようとしていたこともありました(笑)

 

楽して得をしたかったんですよ・・・

 

因果応報という言葉があります。

 

やったことが返ってくる、という理屈です。

 

それが全体性という一つの働きの中で起きることだとすると、気づきや直感が自分に返ってきたものだとしたなら、自分はそれに見合うだけの何をやったか考えてみるといいと思います。

 

この場合、真剣に考えたから気づきが得られたとしたら、特に問題はありません。

 

しかし、大して考えもしないのに特別なインスピレーションがあったとしたら、一度そのインスピレーションの内容を丁寧に観察してみるといいかもしれません。

 

エゴが喜ぶ内容ではないか、エゴが増える方向性ではないか、と。

宝くじやうまい話と同じことです。

 

一方的に貸し付けられた徳のような場合、いつかは返さなくてはいけません。

 

楽して得したい、と思っていると、こういうものにハマることもあります。

 

返した後は以前と同じだった、では成長がありません。

 

自分を磨くことで得られる成長には喜びがあり、そこから湧く意欲は、更なる成長への取り組みの原動力となります。

 

誰にも奪われず、誰からも何も奪わない、そしてなにより気分がいい、そんな生き方の方向性だと思います。

 

 

 

平常心を保つこと

前にも書いたかもしれませんが、平常心を保つということについて、「ぶれなくする」と考えていると大変だと思います。

 

ぶれてもいいけれど、「平常心に立ち返る速度を早くしていく」と考えるといいのではないでしょうか。

 

「ぶれてはいけない」と思っていると、葛藤が生じることもあるので。

 

 

方向性を出すことについて

 

方向性を出す、ということについて、ここ最近続けて描いた息子の絵を借りて例えてみます。

 

左に描かれているのは、ご覧のように「鳳凰」ですが(・・・わかりませんよね)、

これを描いた時は何も見ずにイメージだけで描き上げています。

 

 

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方向性を出すために

 

昨日とタイトルが似ていますが、補足のような内容になります。

 

方向性を出して日々過ごすようになると、保ち続けることの大変さに気づきます。

 

その時に大事になるのは(軌道修正などもそうですが)、「あきらめない」ことと、「強い意志をもって取り組み続ける」こと。

 

そうすると次に、今度はそのあきらめない強い意志をもつために、「自信」が必要になります。

 

自信は自分のやってきたことを根拠にしてその根拠・実績を信じること。

 

しかし、できたこと、やったことをそのまま認めるだけでもいいのに、ついなにかと比べて「できていない」「だめだ」となってしまいがちです。

 

「言葉や想いには力がある」と昨日書きましたが、こうしたところできちんと認めていかないと、実績が無いことと同じになります。

 

自信のもととなる根拠が育まれません。

 

ありのままを認めればいいのに、謙虚なつもりで過信や妄信とはき違えて卑屈になってしまうと、自信がいつまでもつくことはなく、強い意志も持てず、あきらめてしまい、方向性を見失います。

 

そして、自分はダメだ、できない、という悪循環に入り込み、負のループでこれまでのようにさまよい続けることになります。

 

だから、否定しないことは自分らしく生きるためにも大事なことなのです。

 

 

 

課題を見つけて修正するために、このままではだめだな、という否定は問題ありません。

 

いろいろ考えていると混乱してしまい、あれもこれも一緒くたにしてしまうことがあるので、ご注意ください。

 

 

 

方向性についてのあれこれ

人はこの世界でエゴを抱えて生きている。

 

エゴを抱えているということは、不完全であるということ。

 

不完全だから完全な状態を目指している。

 

それが大きな方向性。

 

それでも、どこを目指すかは人それぞれ自由のはず。

 

それを否定することは、自由を認めていないことになる。

 

自由を認める、とは、否定をしない、ということでもある。

 

「(不完全な状態から)完全に近づく」とは、「よりよくしていく」ということ。

 

そのためには「不完全さ」という自分の立ち位置をまず自覚し認めないと、起点が定まらず方向性を出せなくなる。

 

方向性を出せないということは、よりよくしていけない、ということ。

 

動く気にならないし、動こうにもどう動いていいかわからない。

 

「人の一生」という限られた時間の中で、できることは限られている。

 

頭は一つしかないので、一度に考えられることは一つだけ。

 

体は一つしかないので、一度にできることは一つだけ。

 

限られた中で、その一つしかできないことを何に費やすか。

 

例えば、ある情報を目にして、含まれているウソや間違いを見つけて否定的な考え方ばかりしていたら、その横にある自分を高めてくれる真実や道理になかなか目を向けることができず、思うように成長していかない、ということでもある。

 

それは行動から考えれば、「成長する気はないよ」と公言しているようなもので、ある時期を迎えた時にその結果を受け入れなくてはいけなくなる。

 

「だって、それが一番大事だと思ってたんでしょ?」と。

 

自由に生きられる中で大事だと思うことを選ぶというのは、好きな方を選ぶ、ということでもあり、好きにやった結果ならしょうがないよね、自分のせいだよね、と。

 

カルマもあるので、きちんとやっても毎度毎度うまくいくとは限らない。

 

限られた時間内に結果が出せなければ、途中頑張ったにしてもやらなかったことと同じになることもある。

 

「よく頑張ったけど、結果出なかったから、次は地球とは一緒にやってけないけど仕方ないよね、自己責任だもんね。」

 

「こういう結果がでるような取り組みをしたのは、他でもないあなた自身だもんね。」と、言われたら言い返すことはできないのではないか。

 

ある意味、信じて見守るという観音様の有り様はこういう厳しさを含んでいると思う。

 

「気づくまで待つ」ということは、「困ったら助けてくれる」ということではない。

 

気づいた時点で軌道修正してそれなりの行動を起こすから、因果応報でやったことの結果として救われるようなことになっていくだけ。

 

「天は自ら助くる者を助く」

 

「救世主はあなた自身なのです。」

 

 

 

「なるべく早く気づいて、やることやれよ」と、どこかの誰かにいわれている気がします。

 

 

 

特別視について

例えば、誰かを特別視しているとする。

 

特別であることを持ち込むことで、力関係で考えるようになってしまう。

 

これは上下関係を持ち込むことでもあり、下につくことになってしまうため、エネルギーをとられる立場を自分で作り出してしまうことになる。

 

自分に対する特別視はエゴを増やす場合があるが、他者に対しても同じことが言え、他者を特別視することで「平等」「対等」はなくなり、損得勘定のある上下関係、隷属関係になるから自分のエゴが増えてしまう。

 

他者がどうあれ、自分のエゴをきちんとして等身大のありのままの自分を認めていられたら、他者に振り回されて平常心を乱すことはないはず。

 

その他者を陰始に置き換えても同じ理屈。

 

陰始は特別ではなく、同じ立ち位置にあるけれど際立ってエゴが強い人、と思えばいたずらに怖がる必要も減ってくるはず。

 

誰かを悪くして否定するのではなく、向き合うべきは自分自身のエゴ。

 

対立軸をつくり相手を悪とすることで自らを正義にして自分だけ優位に立とうとすると、これまたエゴが強くなるので、注意が必要。

 

 

 

明日はお休みです

明日は勉強会のため、お休みいたします。

 

夏至(6月21日)も近づいてきました。

 

必要な方は早めにご予約いただければと思います。

 

 

 

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伝  104

 

ありのままを認めることは

 

全体性になっていくこと

 

 

 

そこから覚醒を果たすことで

 

エゴの不完全さによる不足は

 

全体性により補われるようになる

 

 

 

ありのままとエゴについて

 

以下、思ったことです。

 

私もばっちりエゴを抱えて生きているので、間違えることも当然あります。

 

鵜呑みにしないで、考えるたたき台にしてお読みください。

 

一部内容が混乱をまねくかもしれませんが、掲載しておきます。

 

 

 

「ありのまま」は「全体性としての私」の方向性の基点だから、ここにたどりつければいい。

 

自由があるので、ここからじゃなきゃ方向性が出せない、というわけではない。

 

エゴを薄くする(考え方を変える)ことで、全体性を損なわないエゴであれば、エゴは強くても問題ない。

 

それは宮本武蔵の章で書かれていた事に該当するはず。

 

完璧だと変化は起きない。

 

不完全だから変化する。

 

エゴは全体性の中に不完全を作り出しており、不完全故に方向性が生まれる。

 

エゴがあるから変化が生まれる。

 

エゴがあるから方向性が生まれる。

 

エゴの強さは方向性の強さでもあり、ありのままという基点が定まった時、出された方向性の推進力はエゴの強さが担うことになる。

 

全体性を損なわない強いエゴは、全体性を大きくかき混ぜながら、宇宙の大きな方向性の推進力ともなりうるもの。

 

だから完全覚醒をしても、エゴは無くならない。

 

全体性の働きを邪魔しなくなるから、無いように感じる。

 

エゴを否定してその存在を無いものとするのではなく、エゴをうまく使って全体性の成長につなげていくことが、これからの一つの方向性。

 

エゴを薄くする、の「薄く」や「無くす」は、全体性への影響の話。

 

エゴは無くならない。

 

 

 

エゴと意欲について

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最近の記事

このところ書いているブログは、知識をインスピレーションでまとめながら書いているため、自分でも理解できていないことがあります。

 

今日は本当に大事なことに気づかせていただ

く機会にも恵まれました。

 

これまで大事なふりをして何度も書いていながら、スルーしていた内容です。

 

また、方向性についても、患者様とのお話の中で確認できたことで、より明確にわかるようになってもいます。

 

わかったりわからなかったり様々入り乱れていますが、確実に進歩している実感がある今日この頃です。

 

 

 

概要

 

まず、全体性に気づくこと。

 

次に、その中にあるエゴに気づくこと。

 

エゴは全体性を「しっかり」意識しないときちんと見えてこない。

 

損なわれた全体性の働きを取り戻すために、カルマを解消し、エゴを薄くしていく。

 

全体性が損なわれなくなると、それがありのままであり、天命に沿って生きられるようにもなる。

 

全体性を損なわない生き方で、ありのままの自分を基点に生きていく方向性、それが天命に生きること。

 

 

 

陰始と方向性

 

陰始はこれからの時代に生き残る方向性とは対極にある。

 

「滅びたい」「滅ぼしたい」という方向性。

 

卑弥呼の章に、最後に残る魂は消滅しない、と書かれていた。

 

しかし、食われた魂もおそらく食った魂の中で集合魂のように何らかの形で残り続ける。

 

消滅しないなら、永遠に生き続けるなら、気分悪くあるよりは、気分よく生き続けたほうがいい。

 

消滅はしないけど変化はする。

 

気分よくいられる変化を選べばいい。

 

気分よくいられる変化は、退化や劣化よりは、進化や成長。

 

気分よく生き続けるには、成長を実感できる方向性を選ぶこと。

 

 

 

陰始と方向性 続き

 

「意欲」を「エネルギー」と考えてみる。

 

エネルギーを奪う、とは、意欲を奪うということ。

 

思い通り生きられたら意欲がわくし、意欲がわけば、よりよく生きるという方向性をだしやすくなる。

 

意欲を損なうと、生きる意欲が損なわれる。

 

それは大きく捉えて、死に向かう。

 

人の意欲が損なわれると、その人はよりよく生きるという方向性を見いだしづらくなり、滅ぼしたいという方向性をもつ陰始にとっては、思い通りになっているため、意欲がわいてくる。

 

人の意欲が損なわれることで、陰始の意欲が増す。

 

これがエネルギーを奪う、という仕組み。

 

上下関係、隷属関係などで奪う仕組みはこれ。

 

陰始は「滅びたい」が消滅しない。

 

人の意欲が損なわれて「滅ぼしたい」の方向性が進むほど、思い通りになっているため意欲が湧くし、自らが滅びの方向に向いても同じ理屈で、滅びたいが実現しない矛盾にはまりこんでいるのではないか。

 

とりあえず、滅びたい、滅ぼしたい、と一番強く思っているから、頂点にいるという理屈。

 

陰始との関係性は、同じ方向性を向いているから生じること。

 

違う方向性を「強い意思」で「あきらめずに」出し続けていけば、陰始との関係性からは抜け出していく。

 

陰始の望まない方向性は、よりよく生きる、という方向性。

 

成長を実感しながら、よりよく生きていくと、行き着く先はありのままの自分、素直な自分。

 

全体性の働きは自然な流れのようなもの。

 

自然な流れになじむ、損なわない状態は、ありのままであること。

 

行き着く先は全体性であり、全体性の中には「在る」ものがすべてある。

 

不完全なエゴも、意味のないように思えるものもすべて。

 

全体性を認めることは、エゴを越えたものを認めること。

 

自分より上位の意識に気づいていくこと。

 

物事がわかっている上位の意識は、物事がわからない下位の意識をコントロールできる。 

 

守護霊さんと現象界の私たちみたいな関係性。

 

エゴは自分の都合で動きたいので、上位の意識に気付きたくない。

 

陰始も同じ。

 

全体性に気づいてそちらの方向性を求めると、よりよく生きる方向性になるため、「滅びたい」から陰始自身は気付きたくないし、「滅ぼしたい」から、みんなに気づかせたくない。

 

だから、陰始の限界はある意味エゴの枠組み。

 

エゴを越えた全体性に気づくことで、陰始を超える方向性を見つけたことになる。

 

そうすれば、陰始に振り回されなくても済むようになっていくのではないか。

 

 

 

勢いで・・・

いろいろと忘れないうちに、という感じで書いています。

 

後日、内容を修正しながら違う文章でまた書くかもしれませんが、掲載しておきますのでよければ読んでください。

 

 

 

人の不幸は蜜の味

 

思い通りにならないことを不自由という。

 

思い通りになることを自由という。

 

思い通りになって自由を感じられたら、幸せ。

 

思い通りにならず不自由を感じていたら、不幸せ。

 

人の意欲を奪うことは、不自由にさせること。

 

「滅ぼしたい」という思いは、人の不幸を喜ぶ。

 

陰始度とは、人の不幸を喜ぶ思い。

 

本人の主体性を奪って、自分の都合で人を操作しようとすることは、本人のやりたいようにさせないことで自由を奪っている。

 

不幸を願っている。               

 

親が子供の将来を勝手に心配して、先回りして口を挟み、善意を押し付け、勝手に安心する。

 

子供の幸せを願っている、そう思うかもしれないけれど、実は不幸を願っているのかもしれない。

 

子供がいうことをきく姿を見て喜ぶ親は、子供の不幸を喜んでいるのかもしれない。

 

子供はある時、親に干渉されないところで、主体性を取り戻そうとする。

 

親が嫌うことを通して。

 

「もう僕の、私の、自由を奪おうとしないで!」

 

そういう思いが、その行動にあらわれているのかもしれない。

 

自画自賛のような過剰な自己肯定も、これでいい、このままでいい、にすりかえられていき安心してあぐらをかいてしまうため、向上心のような意欲が損なわれている。

 

しかし、安心しているためそのために気づいていないこともある。

 

 

  

夏至を前に

 

箸休め的な・・・

 

ここ数日、あるがまま、という言葉を頻繁に考えていたせいか、

 

「あるがまま・・・なすがまま・・・、ナスがママなら、キュウリはパパよ」

 

という、学生時代の同級生のどうでもいいダジャレを思い出しました。

 

写真は「ネギ」で、特に関係ありません。

 

 

 

それはともかく、夏至を前にしてなのか、エゴのあぶり出し、因果応報でカルマ解消の時期に入っている方が多いようです。

 

エゴが活性化して、無意識にミスしていたり、過剰に反応してトラブルになることもあるかもしれませんので、自身の言動や行動に注意をはらい、チェックなどしながら、少し意識的に過ごされるといいかもしれません。

 

夏至は因果応報でやってきたことの結果が出始める時期だと思います。

 

ですから日頃からキチンと向きあって個々の課題をクリアしていければ、よりよい方向性に軌道修正されていくと思います。

 

 

「学び」は、実生活に役立てられるかどうか、だと最近考えています。

 

役立てる方向性は、生き方が「全体性」を向いていればいいようです。

 

物事に向き合っていく際、これまで学んできたことが活かせればいいですね。

 

(「全体性」に気づくこと、意識すること、はとてつもなく大事なことだと先日気づかされました。)

 

 

 

最前線

 

地球は、全体性を損なっていたものを集めて作られた。

 

全体性の働きをきちんとし、新たな方向性を出すために地球は作られた。

 

集められたそれらは湿気たマッチみたいなもので、それを燃やすことで火力エネルギーのようにし、全体性の働きの推進力になりうるもの。

 

全体性を損なっている面はクズとも呼べるが、クズを処理するにはそれなりの力も必要。

 

クズみたいな存在がクズを処理できるはずもなく、処理できるなりの力を持って生まれてきているはず。

 

それが創造する力。

 

「思い(言葉)」を「行動」に移すことで生じる「結果」があり、その結果の積み重ねで生じる「運命」を創造する力。

 

思いによって運命をつくる力。

 

自分を信じるとは、この創造する力をつよく自覚し、理解し、活用していくこと。

 

その力を使って全体性の滞りを動かせるようにしていく。

 

そう考えると、エゴは全体性の一部として与えられた力ともいえる。

 

不完全さゆえ、完全を目指す方向性が出せる。

 

創造する力がここで併せて使われることで、湿気たマッチはよく燃える燃料になる。

 

エゴの不完全さはゆらぎであり、それがもたらす結果は不確定。

 

きちんとした方向性が出せれば、宇宙は大きく変わっていく。

 

だからいまの地球は宇宙の最前線。

 

 

 

ブログの更新など

このところ頻繁にブログをアップする関係で、コメント欄もたびたび更新されていますので、そちらもご覧いただけるといいかと思います。

 

時間がない、と感じ、出来るうちにできるだけの事をしようと思って書いていますので、私個人の備忘録でもありわかりづらいことも書いています。

 

準備が整っている方もいてそれぞれのタイミングに向けて動いてもいますので、一概に言えないことかもしれませんが、私の感覚では「ありのまま」と「全体性」の重要性に気づいてから進んだ理解があり、これまでぼやけていたものがよりはっきりしてきたことで、相当に大きく動きが出てきていると数日前から思うようになりました。

 

同じ内容でも視点が変わることで得られる理解もありますので、粗い内容からできる限り読み取ろうとしていただけるといいと思います。

 

その時に意識していただくといいのは、「全体性」というものがあるんだと強く思いながら、真剣に考えることです。

 

インスピレーションはそうした取り組みの結果得られるものです。

 

 

 

意欲が削がれるのは誰のせい?

 

昨日はエネルギーを奪う、という事について書きましたが、その補足のような内容です。

 

意欲を削がれたと感じた場合、意欲を削がれたのは相手のせいと一方的に考えがちです。

 

しかし、強い気持ちで諦めなければ、そうならないことも選べます。

 

つまり、意欲は自分次第ということです。

 

誰かのせいではないのです。

 

こちらが思うようにいかない事に対して腹を立てたり傷ついたり、ということは、自分の責任を誰かに押し付けたり、あきらめてしまったとも考えられ、幼い、弱い、ための依存といえるかもしれません。

 

意欲は「自分がそうしたいから」ということで保てるようになると、それは自立できているといえます。

 

依存していると気づけた場合、そのことを認めることが大事です。

 

昨日も書きましたが、こちらが思うようにいかなくて意欲が衰えた時、他人の不幸を喜ぶ人は、その姿を見て思ったようになっていくので意欲が高まる。

 

この場合は確かにエネルギーが動いていますが、上記のように考えれば、お金を奪うような感じでエネルギーが奪われるイメージとは異なる印象をいだけると思います。

 

 

 

個別にみれば、意欲を失った人がいて、意欲が高まった人がいる、ということですし、全体性という一つの働きの中で考えたなら、誰かが意欲を損なえば、減った分だけほしがる人のところに流れる、という理屈です。

 

意欲を損なわなければ、ほしがる人のところにも流れません。

 

平常心を保ち、強い気持ちであきらめず、自分の思うように生きていく、そうしたことができれば、奪われるという発想も薄らいでいくのではないでしょうか。

 

似たような内容ですが、理解につながることを願います。

 

 

 

子供とエネルギー

 

以前宇宙全史のBBSで子供を産むことでエネルギーを損なうお話がありましたが、あれも「人の不幸を喜ぶ気持ち」ということから考えてみるとわかることがあると思います。

 

子供は今ある環境で精一杯たのしみ、意欲にも満ち溢れています。

 

しかし、自分のことしか考えない歪んだ価値観を持った大人がいたとすると、その子供の姿を見ても、昨日のブログに書いた理屈で、意欲を勝手に損なうことがあると考えられます。

 

このように、「子供が生まれたから」ではなく、そもそもの考え方がおかしいことが少なくないのではないでしょうか。

 

また、理想をかかげて生きることもいいのですが、エゴの不完全さを理解し、完璧には成し得ないことを知ったなら、今ある中でベストを尽くすことが命を大事に活かすこととわかってきます。

 

子供のせいで思うように生きられなくなった、と責任転嫁していても、自分の成長にはなんら寄与せず、意欲も損なったままです。

 

子供と共に生きる、という選択を一番大事にするなら、お互いが気分よく生きられるよう共に生きる環境の中で最善を考えて行動に移していけばいいだけです。(※1)

 

自分の時間軸の中では、一度に考えられることは一つだけ、行動できることも一つだけです。

 

相手が嫌がっても自分のやりたいことを優先する、というのは、一緒に生きていく、という選択を疎かにするということであり、それ(※1)を選ばない、ということを表明していることになります。

 

自分だけの理想に入り込むのではなく、共に生きる上での理想を自分の一番大事なこととして考えるなら、「子供にエネルギーを奪われた」ということにはならないのではないでしょうか。

 

こうしたことをよく考えずに気にすると、「子供を作らないほうがいいのか」「子供できたから自分は思うように生きられていないんじゃないか」などと考えかねません。

 

「共に生きる」、「互いの幸せを素直に思える」、そういう考え方・エゴをお持ちなら、子供から元気をもらい、励みにし、意欲をもって生きることもできるはずです。

 

もし、人の不幸を喜んでいることに気づいたとしたら、

 

「ああ、自分はよりよく生きるという方向性でいるから、この考え方はそぐわないよね。だから、一度に考えられることは一つだけなんだから、考え直して素直に人の幸せを喜ぶようにしよう。」

 

と考え直せばいいだけです。

 

これが、考え方を変える、思い込みを修正する、エゴを薄くする、全体性を損なっているものを正していく、ということであり、以前も書きましたがこれが「第二の易行道」と私の神様に教えられました。

 

誰かのせいではなく、自分の中の歪んだ考え方に目を向けることが、自分に向き合うことです。

 

その歪みは、全体性の働きを損なっているものであり、全体性という大きな視点から観察することで見つけやすくなります。

 

真理や真実、道理に理屈、いろいろありますが、どれも全体性の中でその働きを損なわずまっとうに機能しているものであり、そうしたものと自分のエゴを照らし合わせてみることで歪みに気づき変えていくことが出来るようになります。

 

宇宙全史に限らず「学ぶ」ということは、そうした全体性のきちんとした働きを理解する取り組みであり、その学びを活かして自身のゆがみを正して生きていくことが、やることをやっている、ということになります。

 

一度にできるものではありませんので、少しずつでも取り組んでいくといいと思います。

 

 

 

施術のお話

 

施術を通してお伝えしていることは、ありのままに向かう道筋のようなものです。

 

ですから、目新しさはありませんし、そんなこと、と思うようなことも少なくないはずです。

 

ただ、それを聞き入れてくださり、実践されている方は変わってきています。

 

きらびやかではないし、華々しくもなく、過渡期は大変ですが、ある段階にくると楽に生きやすく感じているようです。

 

特別な言葉のようなものを期待していらっしゃる方もいるかもしれませんが、フォローですから、ある程度は自分でやることをやらないと声のかけようもないということもあるようです。

 

因果応報ですから、なにかやらないと、なにも起きません。

 

なにかやれば、なにか変わります。

 

「いい子にしていたらご褒美もらえる」は以前の私ですが、意欲を静かに削いでいる場合もあると思います。

 

お利口な顔をして口を開けて待っていても、入ってくるのはせいぜい虫かほこりくらいのものではないでしょうか。

 

これからの時代の方向性を考えて、素直な自分で生きていけるよう、自分に向き合いながら進歩していけるといいですね。

 

 

 

よくわからず一週間ブログを書き続けていた感じです。

 

明日は一部空きもありますし、来週も徐々にご予約で埋まり始めています。

 

ご予約、ご来院をお待ちいたしております。

 

 

 

伝えたいこと

先週はブログを書きまくっていましたが、その理由もある程度わかりました。

 

自分のことはともかく、ここを読んでくださっている方たちに、多少なりとも意識していただきたいことがあります。

 

ここで書いていることは、どんな目的で書かれているか、ということです。

 

その目的については、いらしてくださった方で伝えるべき方には伝えるようにしています。

 

時間がない、ということを以前書いたことがありますが、それにはいくつか意味があります。

 

良くも悪くも尻を叩かれていることがわかる方は、後悔ないように取り組んでください。

 

準備万端でその時を待つ、それが出来る可能性があることに気づいた方は、特に自分をよく磨き、陰始度を出来る限り落とすよう努めてください。

準備不足はすなわち方向性が変わる可能性を示唆しているものですので、ピンとくる方はよくブログを読み返していただきたいと思います。

 

 

 

今朝ネットで目にした情報ですが、大地に動きがあるようです。

 

まだ表立っての変化はないようですが、思っている以上に早く物事が動き始めるかもしれませんね。

 

 

 

書きたいことが浮かんではいるので、また整理しながら空き時間にブログも更新していきたいと思います。

 

 

 

善悪で裁く

 

善悪で裁く、というのは、自分が正しい、という理屈です。 

 

自分の価値基準を優先して人の自由を奪う、人の思い通りに生きさせない、人の不幸を喜ぶ、という図式になります。 

 

妄想、神様たちのやりとり

ふと考えていた、軽い感じの空想です。

 

 

 

「最近ここ(宇宙)、なんかつまんないよね」

 

「ずっと無くならない(永遠)って、けっこう退屈だよね」

 

「最近ここ(宇宙)ほったらかしてたけど、よく見たら、あそことかこことか、ちょっと止まっちゃってんじゃん。あ、腐りかけてるし・・・これ動かせるようにしてたら、ちょっとは暇つぶしになるんじゃない?」

 

「え、そう?このままじゃどうせ64回目もすぐ終わるから、ちょっと遊んでみる?あちこちいちいち行くのも面倒だし、一か所で動くかどうか試してみようか」

 

・・・地球誕生。

 

「う~ん、なんかいまいち動き悪いよね」

 

「あ、そうそう、重石のっけて負荷をかけたら必死になって動くかもよ?」

 

「あぁ、例のやつね」

 

・・・陰始(悪いやつ、悪魔)登場。

 

「じゃあ上からのっけて負荷かけてみよっか!それっ!!」

 

「・・・いま、グシャって言わなかった(;´・ω・)

 

「・・・半分以上死にかけてるのもいるし、さっきより動きわるくなってんじゃんよ!お前なにやってくれてんの!?(# ゚Д゚)

 

「やっば、ちょっとかぶさってるのどかしてひっくり返さなきゃ!」

 

・・・反転。

 

「よかったよかった、ようやく動き出したよ。」

 

「まったく動きの悪いやつらだから手がかかるよね。でも負荷かけたから勢いついたのもいるし、これでここ(宇宙)も動きが出てきて少しは面白くなるかもよ」

 

「いい暇つぶしになったね」

 

 

 

小妹さんにお願いすると面白いかも、と考えていました。

 

 

 

夏至と冬至の意味

宇宙全史では夏至と冬至が節目になっていくと教えてくださっています。

 

その意味を考えたのですが、世の中の波動が上がっていく中で、人もそれぞれに因果応報に基づいてそれまでやってきたことの結果が出る、一緒に上がっていくか、現状維持のつもりで世の中とは相対的な関係から下降となるのか、決算発表のような感じでとらえています。

 

ですから、それまでにどういう取り組みをしてきたか、が大事になり、決算報告を受けてどう軌道修正するか、も大事になります。

 

上昇傾向にある人は、自分の現状をきちんと把握しそれを自覚しないと、夏至や冬至のあともそれまでと同じ感覚で過ごしてしまった場合、上昇はなかったかのようになっていってしまいますので、気をつけましょう。

 

意欲の根拠となるようなものをなるべく自分の中に求めた方がいい理由としては、これから大変なことが起きてきたとき、いつも誰かがなんとか意欲を引き出してくれるとは限らないから、ということが一つにはあります。

 

方向性を違わない、意欲を損なわないのであれば、必ずしも自分の中にだけそうした根拠を求める必要はありません。

 

ただ成長を実感しながらであれば、意欲は保ちやすいですし、夏至や冬至もある意味それを意識するにはいい機会になると思いますので、あと数日ですが、頑張ってみるといいと思います。

 

 

 

やわらかいお祈りについて

 

以前も書いたことがあると思うのですが、過去にBBSでやわらかいお祈りについてお尋ねしたことがあります。

 

身内の方にお伝えしたい状況でしたのでご相談させていただいたという経緯がありますが、その際に月読之大神のお言葉としていただいた内容が、

 

「みんながいるからあなたは幸せ。だから自分の幸せのために、みんなの幸せをお祈りしましょうね、と伝えてあげなさい。」

 

というようなものでした。

 

私たちは全体性の中で、エゴに囲われた不完全な状態として存在しています。

 

その不完全さを、お互いに補い合うことで、思うように生きられており、前も書きましたが、思うように生きられることは自由であり幸せであると言える、わけです。

 

ですから、当時はいただいたご回答の意味がよくわかりませんでしたが、「幸せ」のところを「思うように生きられる」と置き換えてみると、意味が分かりやすくなると思いましたので、掲載しておきます。

 

 

 

やわらかいお祈り

 

私は幸せでありますように

私の悩み苦しみがなくなりますように

私に悟りの光があらわれますように

生きとし生けるものが皆幸せでありますように

 

 

 

「エゴ」の意味について

 

「エゴ」という言葉には、以下の2つの意味があると考えています。

 

○「自他の境目」

 

○「全体性の働きに対する損ない度(歪み度)

 

 

 

「自他の境目」は、自分とはこれである、という認識でもあり、肉体はひとつわかりやすいものだと思います。

 

「歪み度」に関しては、全体性の大きな働きの中で、滞ったり濁ったり偏ったり、調和を乱し、全体性を存分に機能させなくしている状態です。

 

全体の調和を乱さないようになれば、エゴ(歪み度)を「薄くする」「無くす」という言い方は可能です。

 

覚醒をしても肉体は無くなりませんので、誤解が生じやすいのではないでしょうか。

 

「エゴ」という言葉がどういう意味で使われているのか考えるといいと思います。

 

 

 

「ソ」じゃありません

でっかい「ン」でした。

 

今日の空はなんともにぎやかで、様々な表情を変えて見せてくれます。

 

東北の震災後、ネットで目を通すようになった情報の中の一つに、地震をデータから予測している方のものがあるのですが、ここ1~2週間は東日本で中規模以上の地震に注意とかかれていましたので、念のためご注意ください。

 

まだそこまで大規模なものは来ないと思いますが、人間の都合で動くものでもありませんし、無理の無い範囲で注意は持続されておくといいかと思います。

 

 

 

現状維持と100%

昨日いらしてくださった方から聞いたお話です。

 

例えば会社の売上が今年3000万あったとします。

 

「じゃあ、来年も3000万売上たてれたらいいね」じゃだめですよね、ということを言われていました。

 

そこから関連づけてのお話になるのですが、現状維持で100%を維持すること自体は悪くはないと思うのですが、そこには成長がありません。

 

これから世の中が次元上昇していく中で、現状維持は相対的に世の中に対して下降しながら離れていく方向になるということを、以前どこかで書きました。

 

となると、これまでは現状維持でも許されていたものが、今後は成長しないと、ということになります。

 

そのイメージとして最初のお話がイメージしやすかったものですから、ちょっと書き留めておこうと思いました。

 

 

 

不足やらなにやらについて

不完全なことにたいして、足りなかったり未熟なところを補おうとするのが、幸せだとする。

 

しかし、不完全でないことに対しておなじことをすると、力を奪うことがある。

 

いわゆるお節介や善意の押し付け、先まわりした指導などはそれにあたる。

 

足を怪我して満足に歩けないとき、車に乗せてもらえばありがたい。

 

しかし、普通に歩けるのに車ばかり使えば、足は衰える。

 

空腹を満たすためには食べ物が必要だし、喉が渇けば水がほしくなる。

 

生活していくにはお金が必要で、ことを成すには学ばなくては、と、それぞれの段階で思うことや感じることは違うかもしれないが、不足を感じたら補おうとする。

 

食べ物や知識やお金、それぞれを互いに補い合いながら今は生きている。

 

そんな生き方は嫌だから自立するんだ、と言っても、自然から離れることはできないし、人との関係性で自立をしようとしても、その境涯に至っていない身の丈以上のことをしていたら無理がある。

 

無理とはありのままではないということ。

 

ありのままの自分ではない、偽りやごまかしのウソの自分であろうとすること。

 

そうありたい、と頑張ることは悪くはないから、不完全さを認めて意欲を損なわず取り組み続けられるなら、そこにはウソがでてこない。

 

自覚するといいのは、不足を生じるような自分である、ということ。

 

そこを認めたら、補われたときに感謝の気持ちになる。

 

お腹の不足が解消され、財布の不足が解消され、知識の不足が解消され、経験の不足が解消され、感謝の気持ちがでてくる。

 

衣食足りて礼節を知る。

 

そして感謝の気持ちが出た時に感謝のお祈りをすると、自分の気持ちにウソがない、思いと行動が一致した深いお祈りとなる。

 

一度に考えられることは一つだけ、一度にできることも一つだけ。

 

一番大事だと思うから行動に移しており、それが深いお祈りであれば、行動の先にある結果や運命がどうなるかは自ずと見えてくる。

 

運命は自分が作っている。

 

 

 

過剰なサービスや行き過ぎた気遣いなどは、人の力を奪うことがあり、楽をしたい気持ちがあれば依存になっていく。

 

不完全さを知る前に便利さばかりに慣れてしまうと、補い合う考え方がよくわからなくなるのではないか。

 

ある程度限界を知ることは大事で、身の丈を知る意味でもそれなりの苦労はしたほうがいい。

 

苦労しなくて学べるならそれでもいいが、ある程度物事がわかるレベルでないとおそらくそれはできない。

 

 

 

自他の自由を奪わなければ、あるものはなにをどう使ってもいい。

 

自由を奪ったり意欲を奪うような全体性を損なう使い方をすることが問題。

 

だから全体性を損なわないためにも、まずなによりも全体性でものを考えるようにするといい。

 

すべてがそこに含まれているから、これまで得てきたもの全てもそこに含まれ、なにも否定しなくていいし、全てがつながってものを考えられるようになっていく。

 

すべては全体性でおきていること。

 

 

 

満月と夏至

今夜は満月らしいですね。

 

まだ空を見ておりません。

 

明日はいよいよ夏至になります。

 

先週土曜日はコメント欄にも少し書きましたが、とても大きな流れ星を見ました。

 

昨夜はいくつかお話ができ、今夜までが一区切りであるとも言われています。

 

地震もなにやら怪しいですが、取り組みの結果が少しずつでてくるといいですね。

 

 

 

 

全体性を知ってほしい理由

 

覚醒していないのでわからないこともありますが、まず何よりも「全体性のなかには存在するものごと全てがある」ということを考えてほしいです。

 

「全て」ですから、いいもの、わるいもの、素敵なもの、くだらないもの、優れたもの、愚かしいもの、無駄に思えるもの、なんでもあるわけです。

 

それは私たちそれぞれが学び、体験したものごともすべてがある、ということでもあります。

 

全体性を意識するようになってから驚いたのは、どんな理屈も必ずどこかで繋がりがあることがわかるようになった、ということです。

 

まだ私自身は学びの途中なので、すぐに繋がりを見出せないこともありますが、それでも真剣に考えたなら必ず答えは見えてくる、と信じられるようになりました。

 

様々な理屈はあれども、その繋がりまでは見いだせていないゆえ、皆が迷い、時に責めたり後悔します。

 

全体性の中にあるものを、平仮名を例に考えてみました。

 

「私はこれまでの人生で、『ら』『れ』『く』『だ』『し』を経験してきた。

 

しかし、なにも意味のない人生だった。

 

特に『し』はひどい経験で、今でも許せない。」

 

と考えていたとします。

 

しかし、そこで全体性を踏まえて考えた時、すべては存在していて必ず繋がりがあり、その繋がりから意味がわかる、と考えると、『ざ』という言葉を加えて繋がりを考えてみてはどうだろう、と思いつきます。

 

すると『しだれざくら』という一つの言葉ができあがり、やってきたことの意味を見出すことができます。

 

なにも否定する必要がありません。

 

学びにおいても、なにか新しいことを学ぶと「今までまなんできたもは間違っていた」と否定することがありますが、そんな必要はなく、それぞれを活かして、不足を補いながら繋げるだけなのです。

 

誰も、なにも、否定する必要はなく、その存在全てを認めることで全てが動き出します。

 

先週土曜日に私が見た『ン』は、最後の一文字です。

 

それが何を指しているのかはわかりませんが、これまで欠けていた最後の1ピースがはまった、という意味だったようです。

 

それがないから、先に進まない、全てが繋がらない、そういうものでした。

 

それがハマり、全てが動き出します。

 

流れ星は、その流れを表しており、いよいよ始まる、という意味だったようです。

 

教えてくださった方がいての理屈ですが、ようやく腑に落ち、これからわかりやすくお伝えできるようがんばります。

 

この理屈は否定などによって意欲を損なったり、人の不幸を喜ぶ方達にはひっくり返せないものです。

 

否定によって意欲を奪ってきたものにとって、否定できない、それどころか全肯定されてしまっては、意欲を奪うどころではなくなります。

 

今の時間に校正していますが、朝この理屈の概要がつかめた喜びのまま書いた文章をほぼそのまま残していますので、わかりづらいものとなってしまい申し訳ありません。

 

今思うと、朝は頭の上が軽く開いていたんでしょうね、どうあってもポジティブに意欲にあふれてしか考えられない状態になっていました。

 

濡れないように小走りにかけていく猫を見ただけで本気で笑っている自分に、「ついに壊れたか(笑)」と思っていました。

 

いまは落ち着いていますが、いい体験ができています。

 

理屈については、ようやくたどり着いた感じです。

 

また少しずつ皆さんにわかるように書き連ねていきます。

 

 

 

コメントをありがとうございます

最近はこのブログを見てくださっている方も増え、コメントを書いてくださる方も増えてきました。

 

十分にコメントを返せていませんが、時間を見つけて返すようにしていきたいと思います。

 

書いてくださったコメントの内容が、また皆さんの学びにつながるようなものあります。

 

気張りなく思ったことを書いてくださる方もいます。

 

BBSもそうでしょうが、人に見られる文章を書くことは自分の考えを整理する機会にもなりますし、内容がどんなものであれ意欲を引き出してくれる場合もあります。

 

うまく活用してください。

 

 

 

今日も飽きずに全体性

 

タイトル通りで、今日もそんな感じの内容です。

 

このところいろいろ書いていますが、エゴ(部分)ではエゴを越えた全体像をつかむことはできませんので、個々の段階に応じた解釈でいいと思います。

 

ただ、想いが運命をつくる、という仕組みがありますので、できるだけ真剣に考えていただいた方が、よりきちんとした解釈になるはずですから、その点を意識してください。

 

シンプルに「全体性はある」と思い続けていれば、その人にあった答えがインスピレーションとして浮かぶようですので、ここに書かれているのは私の見方として考えるようにしていただくと、無理が無いと思います。

 

 

 

全体性とは、すべては一つである、ということ。

 

存在するあらゆるものが全体性にあり、私たちもまたその内に含まれる。

 

過去や今はもちろん、これから存在を確認されたり活用されるものや仕組みもすべてがある。

 

だから今ここという話になるのではないか。

 

全体性を構成する存在である以上、無くなることはない。

 

しかし、形を変えることはあるかもしれない。

 

エゴでとらえれば消えるように見えるし、全体性からみれば形を変えただけになる。

 

だから、全体性から考えるようになると無くならない。

 

私もあなたも、全体性という存在の中で永遠ともよべる時間を存在し続ける。

 

どんなに親を恨んでも、肉体で生まれてくる以前から私たちは存在し、どんなに悔やんでも、その子はお腹に宿る以前から存在している。

 

「否定」は「無いことにしよう」とすること。

 

無くならないものは消せないし、消せないものは否定できない。

 

どんなに否定し続けたとしても、存在を無くすことなんてできやしない。

 

自分を無くそうと責め続けても、自分すら消すことができない。

 

存在を否定することなんて、誰一人としてできるものはいない。

 

だから、まず存在をすべて認める。

 

全体性がある、と思うようにする。

 

あるものの中で何を選ぶのか、その方向性が小さな私たち自身なのかもしれない。

 

それは運命を創造し続けているということ。

 

なにも消すことができない、だから私たちは神に存在することを許されているといえるのではないか。

 

「存在していいんだ。

 

消せないから否定なんてできない、私たちは存在していいんだ。」

 

今回初めて「自分が存在していいのだろうか」という疑問を無自覚無意識に抱き続けてきたことに気づいた。

 

そして、安堵した。

 

誰かを傷つけたり、自分が傷ついた、と思うのは、この自分の存在への疑問があるからではないか。

 

やっぱり存在してはいけなかったんだ、と存在を許してくれていることを信じられなくなるからではないか。

 

「だれも私を否定する(消す)ことはできない、だったら思うように生きてみたい、生きていきたい、自由をもっと感じたい!」

 

あるものはなんでも使っていいのなら、創造し続ければいい。

 

創造は運命であり、やったことの結果の積み重ねである。

 

因果応報によって、喜びと共に創造し続けたい。

 

エゴに線引きされた不完全な私だが、お互いに助け合いながら生きていけば、限られた寿命のなかであっても創造し続けていける。

 

全体性の流れに溶けこんでいったとしても方向性を持ち続ければ、全体性を損なわない大きな流れの中の小さな流れとして存在し続ける。

 

小さな流れは、ある意味個性であり、自他の境目としてのある段階のエゴである。

 

思いの強さが、流れの勢いとなり、全体性の中で影響しあいながら流れ続けていく。

 

おそらくその流れはビッグバンから始まっており、原初の思いは、ゆらぎの中でとことん楽しみ味わい尽くす、であるような気がした。

 

 

 

今日もわかりづらい感じですが、一応書き留めておきます。

 

 

 

子供の絵

息子が学校に通うようになり、宿題などもあって絵を描く機会がやや減っています。

 

数枚ですが掲載しておきます。

 

私にしてみると、ここに時々掲載する写真は息子と娘の記録ですね。

 

夏至までになんとかレベルアップ出来る方はしていただきたいと思って、長い文章が続いていましたので、息抜きになればと思います。

 

 

 

 

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書きたいことが・・・

先ほど施術をしながらお話をしていたのですが、ここで書きたいことがポンポコ出てくるものの、書こうとすると忘れてしまっています。

BBSにもさきほど覚えている範囲では書きましたが、とりあえず思い出せたら書くようにします。

 

今日もみなさん、一日お疲れ様でした。

 

写真は息子作、最新版の鳳凰です。

 

書道教室に通い始め、筆で描いたそうです。

 

 

 

変化の自覚

自分の変化を自覚することについて、です。

 

全体性への方向性を出している場合、その成長や変化の先は「ありのまま」に向かうわけですから、どんどん普通になっていく、という感覚がある意味わかりやすいかと思います。

 

ただ、腑に落ちるような気づきがあると夏至の私のような感じにもなるとは思いますが、以前に比べて落ち着いてきた、穏やかになってきた、生きやすいと思えた、そういうことを自覚できたならとりあえずOKです。

 

不完全な私たちですから、なにか過ちや思い違いなどに気づいたらその時に修正すればいいので、大きな方向性がでていれば修正もかけやすくなります。

 

こうじゃなきゃ、と思いこんでしまうと、「あの人(だい)と同じ体験をしていないから駄目だ」というように否定しかねません。

 

その方の段階に応じた理解というものがあり、それは人それぞれです。

 

そうしたそれぞれもすべて全体性の中に含まれているものであり、なにも否定する必要のないものばかりです。

 

細かなことを気にしだすと返ってその方向性が分かりづらくなることがあります。

 

隅々まできちんと考えられるようになるのも、軌道修正を繰り返しながらその方の無理の無い範囲で、段階的に目指していけばいいと思います。

 

 

 

好き・嫌い

自由な生き方は、思うように生きられることであり、好きに生きる、ということでもある。

 

「好きに生きる」というと、「好き勝手」と解釈してしまいがちだが、「全体性を損なわないエゴ」で好きに生きることと、「歪んだエゴ」で好きに生きることでは違いがあるので混同しないよう注意する。

 

「ありのまま」の解釈も同じで、全体性を損なわないエゴが望む「ありのまま」に至るには、日々のやるべきことに対する取り組みを限界までやって身の丈を知り、自ずと定まる覚悟で好きに生きようとすることなので、命を大事に生きようとする姿になっているはず。

 

歪んだエゴが望むありのままは、自分の成長を求めず楽して生きたい、なのでまったく別物。

 

思うように生きる、好きに生きる、などのそうした「思い」や「好き」が自分の大事な方向性になる。

 

なにかを選んだらその他を否定するわけではなく、全体性としてずっとあるものの中で、今はそれを選ばなかった、一番大事とは思わなかった、一番必要とは考えなかった、ということ。

 

だから、嫌い、と表明することは、否定ではない。

 

存在を否定しようとしているのではないか、と考えてしまい「嫌いといえない」と考えてしまいがち。

 

しかし、自身の中で好き嫌いを自覚しないと方向性が出しづらくなる。

 

互いに葛藤を生じずに、そこをはっきり伝えあえるようになることも、これからの課題。

 

相手の理解が得られないまま一方的にいうと、カルマが増えることもあるので、よく考えて口にしなくてはいけない。

 

「あなたのそれはそれでいいけれど、私はそれは好きではないからこちらを選びます」

 

でいい。

 

「こっち来るな!あっち行け!!」

 

と言いたくなる存在もいるけども・・・

 

相手が嫌がることをしない、というのは自由に生きる上でのお互いのマナー。

 

弱肉強食で好き勝手されてしまうとそうもいかないが、意思表示や態度の表明は自分であるためには大事なこと。

 

 

 

ちなみに関係のない話題です。

 

北海道に行って私の妻は意識レベルが上がったと感じていますが、その主な原因は超高い絶品焼肉を御馳走になって気分がよくなったことがきっかけだというのは、ここだけのお話。

 

衣食足りて礼節を知る、これ本当です!大事なことです!!(笑)


 

梅雨

今年は梅雨らしい毎日が続いていますね。

 

洗濯物がなかなか乾いてくれません。

 

子供を学校に送った帰り道、久しぶりにカタツムリを何匹も見かけました。

 

岐阜でよく見ていたものとはちょっと違うんですよね。

 

楽しいひとときです。

 

 

 

ちょっと前に私が気にしている地震を予測している方の情報について触れましたが、予想されている中規模以上の地震がまだきていません。

 

無ければ無いでいいのですが、データもその後変則でずいぶん極端な動きを見せていたので、ちょっと警戒しています。

 

また、その地震が発生すると、先日の「ン」の字同様、ひとつの区切りでもあるようです。

 

こうした区切りは人それぞれなので、関係ない方もいらっしゃいます。

 

当事者であっても、その区切りに気づくのは「その後」でしょう。

 

私たちの自覚がないところで、一つずつ期限は締め切られているように感じています。

 

 

 

「軌道修正」を取り入れる

これまでなにごともまっしぐらに突き進むタイプだった方が、夏至あたりから「その都度方向を変えていけばいい」という風に考えられるようになったようです。

 

こうした変化も、今後の成長をよりスムーズにするため重要です。

 

柔軟性が増していますよね。

 

 

 

写真は娘作「ぞうさん」です。

 

 

 

メモ

今朝の寝起きに浮かんだ言葉です。

 

 

 

良識とは、当たり前のことが当たりまえにできること。

 

整理されたエゴであり、「自ら」である「すべて」となじんだ状態。

 

全体性を損なわない考え方。