実践中

最近これまでお伝えしてきたことの整理に時間を割いているのですが、実践を通しての理解が浅かったこともあり、まとめる作業を通して実践しながら確認も行っているところです。

 

ここ数日は事あるごとに考えることが浮かぶため、お伝えしてきたことを使いながら確認することでいい緊張感もあり、時間がもっとほしいと思えるほど充実しています。

 

いまやっている取り組みを優先しておりますが量もそれなりにあるためしばらく時間がかかります。

 

ブログの更新はある程度落ち着いてから折を見て行うようにします

 

よろしくお願いいたします。

 

写真は息子の夏休みの作品です。

 

 

 

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あきらめること メモ

結果としてあきらめた、という場合、「継続する」よりも「あきらめる」方が大事だと思ったから、ということになります。

 

一度にできることは一つだけ、の理屈で大事だと思うことを行動に移したと考えると、こういうとらえ方になります。

 

無自覚にやっていることも多いのですが、「あきらめることが大事だと考えたから」と捉えると、物事の見え方もまた変わると思います。

 

「大変」「難しい」の一言は安易にあきらめる癖のあらわれかもしれませんので、日常の自分の言動など意識してみるといいのではないでしょうか。

 

方向性に合っていない場合もありますが、取り組む際に方向性をキチンと出せていないことが原因です。

 

 

 

ブログはブログで更新した方がよさそうなので、短いですが書いておきます。

 

言葉が足りないこともありますが、そこはとりあえずご自身でお考えいただくといいかと思います。

 

写真は息子作、妖怪パズルです。

 

 

 

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因果応報とエゴとカルマ

 

エゴとカルマについて、それぞれ歪みという言葉を使うとなんとなくわかるとは思いますが、わかるようでわからないことではないでしょうか。

 

因果応報の仕組を「思い」と「行動」と「結果」にわけて考えた時、

 

・「思い」の歪みがエゴ

 

・「結果」の歪みがカルマ

 

と考えるとわかりやすいと思います。

 

結果を踏まえて改善する取り組みが軌道修正、歪みをそのまま放置することがあきらめ。

  

なるべくシンプルに考えると理解が進むのではないでしょうか。

  

間違いがあれば修正すればいいので、ご自身でも一度お考えください。

 

写真は、息子作「こころがひらくはながあるいえ」だそうです。

 

 

 

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エゴをうすくする、について

エゴを薄くするとは、「特別」を減らしていくことです。

 

ここ2日ほど面白い体験や気づきが得られています。

 

落ち着いたら書くかもしれませんが、まだやることがあるので簡単に書きました。

 

取り組みに対する自信も深まっています。

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自立とあてと特別視

自立とは、自分のことは自分でやる、ということです。

 

人やなにかをあてにしない、ということです。

 

全体性の理解が進み自立できたなら、自分のやったことがきちんと自分に返ってくることがわかるようになります。

 

しかし、自立はできているようでなかなかできていないことだと思います。

 

それは、あてにする、ということを無意識にしてしまうことが多いからです。

 

「あてにする」というのは、「自分を助けてもらう」という発想であり、自分を助けられる存在というのは、自分より何かが上でなくては助けることはできません。

 

存在としてはみな平等であり、自分のことは自分でやることが本来の姿だとすると、自分のことを自分でやらないで、上位の存在をつくりだすことによってそれに肩代わりしてもらおうというのは、本来の姿を歪めてしまっていることにならないでしょうか。

 

特別視する、とはこういうことです。

 

 

 

また、上位ばかりでなく、人に頼らせる、すがらせる、という下位の存在をつくることも無意識にやっていることがあります。

 

自他の関係において依存をつくるわけです。

 

 

 

このようになにかをあてにすることによって、特別視することを増やし、自立から遠ざかることをしてしまいがちです。

 

ですから、特別視に気づくことは非常に重要で、特別視している間は、自分のことは自分でできると思っていないということですし、自分を信じることもできません。

 

自信がなければベストを尽くすこともできず、命を大事に生きているとは言えない状態です。

 

 

 

特別視に気づいて平等に目を向けるようになっていくことで、因果応報の歪みを少なく使うことができるようになっていきます。

 

よりよい生き方に通じることです。

 

 

 

情報や存在に対する特別視にならないよう、自分の方向性をきちんとしたうえでそうしたものと向き合えると、歪みは生じづらくなるのではないでしょうか。

 

そこができないまま向き合うと、ちょっと大変かもしれません。

 

 

 

コメントをくださっている皆さん、ありがとうございます。

 

過去のブログにもコメントをくださっている方たちがいらっしゃいますので、せっかくですから読み返す際にはコメント欄にも是非目を通すようにしてください。

 

 

 

さきほどネット記事を見たところ、台風17号「メーギー」が発生していますね。

 

韓国名で「なまず」だそうです。

 

写真は息子作、ドラゴンボールのカリン様です。

 

 

 

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メモ 情・同情・非情

とは、良くも悪くもエゴの価値観で自分が考え行動すること。

 

全体性の理屈や道理よりも、エゴの価値観を優先している状態。

 

 

 

同情とは、やはりエゴの価値観を優先しつつ、相手の価値観の方が歪みがつよい場合に自分の価値観を疎かにし、相手のエゴの価値観の方を「いいね」といって優先している状態。




      

 

 

非情とは、こうした自分や他人の情よりも、より歪みの少ない全体性の道理や理屈を優先すること。

 

いいものはいい、ダメなものはダメ、正しいものは正しい、違うものは違う、そう判断でき行動に移せること。

 

 

余談ですが、特別視について考えていたところ、神社で神様をあてにして拝みにいくというのは、神様を祀るというよりは特別視することによってそこに封じ込めている、そんな感じがしました。

 

全国各地に祀られている?神様は、バラバラにされて封印されているかのようにみえてきます。

 

御嶽山が噴火したことがありましたが、あの山はいわゆる霊山として山岳信仰の対象になっており、その山頂に祀られていた(封印されていた)神様があの時解放されたのかも、なんてことを考えたりしています。

 

 

写真は、もう亡くなられていますが、父の書の先生が書かれた字です。

    (内容を一部修正しました)

 

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思うこと

 

人には「幸せ」を願う気持ちと「不幸」を願う気持ちがあります。

 

言い換えると、思うように生きられる「自由」を願う気持ちと、思うように生きられない「不自由」を願う気持ちです。

 

そうした気持ちは自分に向けられたり他者に向けられたり様々ですが、ここをよく自覚し、意識して幸せを願うようにしていけるかどうか、一つのポイントです。

 

 

 

なぜなら、無意識では不幸を願うということをつい私たちはしてしまうからです。

 

なぜ「つい」してしまうかといえば、癖になってしまっているからです。

 

癖になるほど繰り返してきたのは、歪みの多い世の中に長く身を置いて癖になるほど繰り返してきたからです。

 

 

 

本来の進化成長の方向性に蓋をしたために生じるようになった歪みがあり、その蓋は神を特別視することで、そのことにより私たちは方向性を見失いました。

 

そして、神の先には全体性があります。

 

全体性を見失うことで、私たちはエゴの範疇をぐるぐる回り続け、歪みを増やしたり強化しながら癖やそれ以上のものを身につけて今に至っています。

 

 

 

弱肉強食の世界では、力のあるものが優位に立ちます。

 

いまは不幸を願う数が優位に立っており、そこから幸せを願う方向性に進むには、それらに引きずられないような自分でなくてはなりません。

 

ある時期を越えると数が逆転しその優位性が変わる可能性がありますが、先駆けて方向性を出す人は、まず全体性に方向性を定めることができるかどうか、そして結果を出すために自信をもって日々取り組んで自分を成長させていけるかどうか、そうしたことを自覚しなくては結果を出すことはできないでしょう。

 

 

 

全体性に向かうということは、自然になっていくということです。

 

普通になっていくのです。

 

あればあったでいいけれど、無いなら無いなりにあるもので生活を考える。

 

どんな事柄も分け隔てなく普通に平等に扱えるようになっていかなくては、進化成長しているとはいえません。

 

 

 

好き嫌いはあっていいですし、必要なものを欲する気持ちは自然なものです。

 

しかし、それが執着や固定化にまでなると、おかしくなってしまいます。

 

なにか特別なエサを吊るされて「これが無くては困る」「いま手に入れておかないと損をする」と特別視をくすぐられると、依存心を全開にさせられてしまいます。

 

 

 

無意識に自らの歪みをあぶり出された時に、その歪みに気付けるかどうか試されることもあります。

 

あぶり出すという言い方はネガティヴな印象をもつかもしれませんが、消えていく姿がわかっていれば、それもそういう思いになることはないはずです。

 

うろたえて人のせいにすることもありますが、隠れていた自分の課題をわかりやすくしてもらえるならば、それは有難いことなのです。

 

平常心をわかっていないと、その気づきすら得られないでしょう。

 

 

 

今までなにを学んできたのか後で後悔することがないよう、ご自身のエゴのチェックを今この時、怠らないように過ごされるといいと思います。

 

それができていれば本当に役に立つものが身につき、本当に大変な時にその意味がわかるのではないでしょうか。

 

また、これからの時代についても考えておくといいと思います。

 

 

 

これまでは因果応報が正しく使われず、やったことがキチンと返ってきていませんでした。

 

不平等な世の中になっていました。

 

それが、歪みが減り因果応報が早くなるといわれている今、ウソやごまかしはできなくなってきて平等な世の中をこれから作っていこうとしています。

 

 

 

新しい時代をつくる前に、これまで溜め込んだものを解消しなくてはいけません。

 

誰が解消するのでしょうか?

 

ディセンションする人たちが解消するわけではないのです。

 

 

 

解消できないからこそディセンションしていきます。

 

みなが平等である以上、肉体をもって生きている私たちに負荷は均等に割り当てられると私は考えています。

 

そこで抱えているカルマの量に応じて加算減算され、負荷を解消しながらたくましくなり、同じ負荷が来ても生きていけるような人は20年後に生きているでしょう。

 

 

 

負荷を解消できず、考え方の歪みからさらにカルマを増やした人は、その重みに耐えられず潰れていきます。

 

時代の先駆けとなる人たちは、率先してそうした負荷を真っ先に負うことになると思っています。

 

その時に平常心を保ちながらエゴを薄くしてカルマを解消する、ということがスムーズにできればいいのですが、なにかをあてにしてそうした自分のやるべきことができないまま負荷を負うと、平常心を保てず思わぬカルマを増やしてしまうかもしれません。

 

 

 

先延ばしにされているいま、できるうちにできることをやっておくことでカルマを減らせるならば、これまでも繰り返し言ってきましたが、やれることはやっておいたほうがいいと思います。

 

 

 

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届きました

 

非公開情報9が本日夕方届き、一通り目を通しました。

 

少し整理するために何度か読み返そうと思います。

 

BBSの右No.2981にて人に伝えるかどうかの判断は各自に任せられていると書かれていましたので、いらしてくださった際に希望された方には、私のわかる範囲でお話できることはしようと思います。

 

いらした方の成長につながるような、実生活でなにか役に立つようなお話ができればと思っています。

 

 

 

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メモ 繋がり

全体性はありとあらゆる存在が一つの「働き」として繋がっている。

 

その繋がりを介して、いったものが返ってくる。

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