伝 112

言葉は「命」から発せられるもの



言葉を正しく使えるようになって

初めて人は

きちんと生きているといえるのです



うそ偽りなく生きることの難しさを知り

心素直に生きる喜びを求めることで

人は言葉の大切さを知ることになります



まだ誰も見たことのない世界を垣間見るよりも

目の前の日常を大事に生きることの方が

いまのあなた方には求められています



たくさんの命が奪われるようなことがあったとしても

誕生する命を知ることで

自らの生に正しく目を向けられるようにもなるのです



いまを生きる大切さを考えてください

言葉を大事に生きる意味を理解してください


 
それができるようになったとき

あなた方の命は

 一つ育まれることとなります



全体のいのちもまた

一つ育まれることとなるのです




お節介

『どれが正しいか自分で判断しなければ自分を生きてるとはいわない。』

 

これはとても大事なことで、今後の私たち自身の運命を大きく左右する要因になります。

 

 

 

『神の愛と言われているものは意識の進化を望むもののみに適応される。間違った方向に進んでいる人間は助けたくても助けられないのが本当のところだ。』

 

まず自分を生き、その自分で考えてだした方向性があっていれば、神の愛を感じられるかもしれません。

 

結果を見て、それが自分の納得がいくものであれば、自分の判断が正しかったとわかります。

 

 

  

『自分のやった結果を自分の目で見るただそれだけ。』

 

目を疑うような事象、耳を疑うような情報、そうしたことがこれからますます増えてくることで、私たちは自分で判断する機会を得て、自らの方向性をだせるかどうか問われていきます。

 

 

 

人の話を鵜呑みにしていたのでは、自分の判断になりません。

 

知識だけ集めても、使い方がわかっていなければ意味のないことです。

 

話を聞いた方、資料を読まれた方、ブログを読まれた方、わかった気になって終わっていないか、よく考えてみてください。

 

ここ数日、私自身の取り組みはもちろん、何人かの方を通して、現状の厳しさを痛切に感じています。

 

 

 

話を聞く気のある方は、聞けるうちに聞いてください。

 

学んだことを実生活でできていれば問題ないのですが、考えもしなくなっている方もいるかもしれません。

  

こうした書き込みは、ただのお節介です。

 

 これまでの各々の取り組みの結果をご自身で見るだけですので、そこに後悔が無いことを望んで書かせていただきました。

 

 

 

いらした方たちには、すでにお伝えするべきことはお伝えしてきたつもりです。

 

それでもなお、変わろうとしない方(先延ばしにしている、行動に移していない)もいますので、ご自身がそれを望むのであれば構いません。

 

お伝えしてきたことを実生活でどう活かすかは、まず皆さんが個々に考えて取り組むことです。

 

私の伝え方の悪さや稚拙さもありますが、やらないことにはご自身で何がわからないかがまずわかりません。

 

 

 

ままならないくらい忙しくなったり、疲れ果てた時に、それでも平常心を保って正しい判断が下せる方は大丈夫でしょう。

 

しかし、たいして忙しくなくても、やることがなくて元気があまっていても、正しい判断を下せないのが私たちです。

 

負荷がかかればなおの事。

 

いまやらないでいつやるの?というところでしょうか。

 

 

 

今朝、目が覚める直前に、上記の『どれが正しいか自分で判断しなければ自分を生きてるとはいわない。』からの一連の話が浮かんできたので、ブログとして掲載しておきます。

 

 

  

ひとつのポイントとして

 

エゴをチェックする際のポイントして、事実を言われた時に

 

 

・うろたえる

 

・ギョッとする

 

・腹が立つ

 

・傷つく

 

・憎む、他

 

 

が自身の反応として起こる場合、ありのままを認められていないので、思い込みがあるということになります。

 

 

 

ありのままを否定して見ている、ともいえます。

 

 

 

エゴをチェックする際に、お考え下さい。

 

 

 

 

真剣さ

 

ある一定以上の集注の状態にならないと言葉が入っていかない、ということがあると思います。

 

 

その集注とは、「真剣に考えること」です。

 

 

 

エゴ(目先の損得勘定)が働かなくなるような状態を維持することで、

 

・徐々に言葉が入ってくる

 

・わかるようになる

 

ということがあります。

 

 

もちろん、これがすべてではありませんので、他にも大事な要素はあるのですが、自分の文章を読んでもいまいち意味がわからない時があり、そうした時は何度も読み込むことで、そうした状態になっていたことを感じました。

 

 

特別な方法ではありません。

 

 

理解が進まない方は、そうしたことも踏まえて読んでいただくといいかもしれません。

 

 

今日いらしてくださった方に、けっこう厳しくエゴを指摘してお話を聞いていただきました。

 

 

わかった気になっていることが一つ原因ではあるのですが、やっているつもりで実際は真剣に考えてこなかった、とも言えます。

 

 

取り組みと理解の確認として、言葉の意味を説明できるかどうか、試しに考えてみてください。

 

 

 

写真は一応子供向けアニメ?のキャラクターを描いたものですが、ちょっとしたホラーになっていますね。

 

 

 

 

ある患者さんのメール

これは、いらしてくださっているある患者さんが、やはり当院に来てくださっているご家族にあてたメールです。

 

 

 

日々の取り組みについてお考えいただくのにいいと思い、ご本人に許可をいただき、掲載させていただきました。 

 

 

 

状況などがわかりづらいところもあると思いますが、これまでここで学んできた方は、読み取れる範囲でご自身の取り組みや理解している内容を確認しながら読んでみてください。

 

 

 

 

 

『昨日は、遅くまでお疲れさまでした。

 

 

 

食事中の、会話のうどん屋さんの件が、私の中では、何となくモヤモヤひっかかっていました。なんでまた、今うどん屋さんの話が出て来たのか???

 

 

 

今朝気づいたことがあったのでメールします。

 

 

 

例えば先日のうどん屋さんで、目の前の出来事に対して、行動に表すかは、見た人の自由。

 

 

 

声をかける、間に仲裁に入る、見守っている、見ている、様々な選択肢がある中で、何をどう選択するかは見た人の自由。その選択にいいも悪いもない。

 

 

 

ただどう選択し、反応する、行動に表すかというが方向性を出すということではないかと思います。

 

 

 

私が、言った「大変ですね」という言葉は言い換えると、目の前の出来事、見てました、認識しています、私もわかってますよということを相手に伝える意味合いで発した言葉です。コミュニケーション、挨拶の一環みたいなものだと私はとらえています。

 

 

 

私は、できればお互いが気持ちよく過ごせるようにしたいと思っています。

 

 

 

なので、会社で目の前で咳をしている人がいれは、大丈夫ですか?と声をかけます。

 

 

 

それは、相手の存在を認めてますよ。

 

目の前の状況を見てます。

 

理解していますということを相手に伝えるコミュニケーションだと思っているから。

 

声をかけることによって少なくとも、相手には、今日は体調が悪いんですね。

 

そのことを私は認識していますよ

 

ということが、無反応でいるよりは伝わると思います。

 

 

 

相手がいる場合、自分がいくら相手の事を気遣っていても、そのことを行動で示さなければ相手には伝わらないです。

 

相手との関係性をどうしていきたいと思うかによって、自分の行動が変わって来るでしょうし、それが方向性を出すということかなと思っています。

 

 

 

かけた言葉を相手がどうとらえるかも相手の自由。

 

 

 

大切なのは、自分がどう方向性を出すかだと思います。

 

 

 

「このことについてどう思う?」 

 

と意見を相手に求められた時に、

 

「(相手の)したいようにしていいよ」

 

という回答は、相手の考えを尊重してますとも捉えられますが、

 

「自分で考えて下さい。私は一緒に考えません」

 

と相手と一緒に考えることを拒否しているとも捉えることができると思います。

 

 

 

まだ、私の中できちんと整理できていない部分もあり、伝わるかどうかわかりませんが、現在気づいたことをメールさせてもらいます。

 

 

 

何か事象が起こった時は、課題解決の時だと私は思っています。Aと、口論になったのであれば、そのことについてどう考え、今後に活かしていくか?私も年始にAとけんかした時にいろいろ考えました。自分の課題にいろいろ気づきました。

 

 

 

今回のことからいろんな気付きがあるといいですね。

 

不明点は、大さんに相談してみるといいと思います。』

 

 

 

 

 

伝 113

 

多様性を認めることにより

 

よりよい考え方があるのだと知ることができたなら

 

それを素直に学ぶことです

 

 

 

人を敬う気持ちは大切ですが

 

いまここにおける意識の進化の要は

 

「だれがいっているか」ではなく「なにをいっているか」

 

 

 

無限に続く意識の階梯を

 

私たちはどこまでも上を目指して

 

あがっていきます

 

 

 

それがどんなに立派な人であったとしても

 

「だれ」を大事にするうちは

 

ある段階まではいけますが

 

その人を越えられず

 

成長は停滞していきます

 

 

 

だからこそ

 

「教え導く」ではなく

 

共に歩む」なのです

 

 

 

これまで続いた閉塞感は

 

ここに起因していました

 

 

 

全肯定を目指し

 

「なにをいっているか」に目を向けることで

 

閉塞感は打開され

 

さらなる進化の道筋を見出します

 

 

 

不完全な私たちが

 

互いのちがいを認め合うからこそ

 

多様性はうまれます

 

 

 

お互いさま

 

となるのです

 

 

 

正しい方向性をうち出しながら

 

「だれ」とはちがう考えをもつことで

 

あなたの個性は育まれ

 

よりよい進化を遂げていくのです

 

 

 

 

 

最後の伝 114

 

これが最後の伝になるとお考えください

 

 

 

あなたのこれまでの取り組みは

 

良くも悪くも波乱に満ちたものでした

 

 

 

この境涯に至ってわかることは

 

あなたがこれまでやってきたことがらなに一つとして

 

無駄はなかったということ

 

 

 

これから巻き起こる数々の出来事は

 

時に人々を大きく惑わし

 

時に深い頷きに足る出来事ともなっていきます

 

 

 

誰一人として完璧な人などいません

 

 

 

そのことを素直に認められる様になり

 

初めて人は一人前となるのです

 

 

 

誰よりも心根の優しいあなたにとって

 

エゴのそうした不完全さを認めることは

 

これまでにない境涯への導きに他なりません

 

 

 

神の代行者としてではなく

 

あなたが神そのものであるということ

 

 

 

神とは

 

自らを生きる存在のことなのです

 

 

 

その境涯にいたる道筋を

 

ひろかねさんはつけてくれました

 

 

 

自らを生きてください

 

 

 

今のあなたにはそれができます

 

 

 

心より愛を込めて

 

神より

 

 

 

 

「最後の伝」について

先日こちらに掲載した「最後の伝 114」について、気になっている方もいると思います。

 

 

 

とりあえず、わたし自身は特に変わりはなく、あの内容についてもわかっていることもあれば、そうでないこともあります。

 

 

 

具体的な意味などはあまり把握できていません。

 

 

 

ただ、

「みなに時節を報せる」

という役目はあったようで、これでまた一つ大きな節目を越えたようです。

 

 

 

実はあの内容は、5月24日に受け取ったものでした。

 

 

 

「掲載は6月10日」という指定があり、一定期間をおいての掲載となりました。

 

 

 

一つの区切りとなります。

 

 

 

これから、「いつ」「どうなる」のか、ということはなんともいえません。

 

 

 

しかし、方向性をだしているのであれば、これからそれぞれがもっと意識レベルを上げていく必要があることに、変わりはありません。

 

 

 

私も含め上を目指している皆さんの中で、現状に満足してあぐらをかいていられる方はいない、という前提でこれから日々の生活に改めて取り組んでいただきたいと思います。

 

 

 

「どれが正しいか自分で判断しなければ自分を生きてるとはいわない」

 

 

 

どんなことを言われたとしても、ご自身で考えたうえで判断して行動に移してください。

 

 

 

答えを聞きたくていらっしゃる方もいますが、全ての結果は自分の行動に基づきます。

 

 

 

自分のやったことの結果を、人のせいにはできません。

 

 

 

日々の取り組みと祈りについて

祈りとは

 

『日常生活と切り離した取り組みに生きることではない』

 

と考えています。

 

資料にも載せていますが、

 

『日常生活をきちんと生きてこその祈り』

 

だと考えているからです。

 

 

 

気を付けたいのは、

 

『目の前の生活をおろそかにして、特別な体験ばかりを求めない』

 

ということです。

 

(※この場合の「おろそかにする」とは、日常生活よりも特別な取り組みに価値がある、と考えて行動することです。)

 

 

 

日常生活をきちんと生きていれば、当たり前のことが当たり前にできている、といえます。

 

当たり前のことが当たり前にできるのは、正しい理屈で考えて行動できるからです。

 

間違った理屈で正しいことはできません。

 

 

 

正しい理屈で考えられるということは、正しくものごとが見えているからであり、もちろん程度や段階はありますが、それはありのままを認められているからです。

 

ですから、日常生活をきちんと生きられている、ということは、ある程度ありのままを認められていることになります。

 

 

 

また、日常生活をきちんと生きられていれば、エゴが薄いといえます。

 

日常生活をきちんと生きようとすることが、エゴを薄くすることであり、全体と調和していくのですから、意識レベルを上げることになります。

 

意識レベルが上がることで、レベルに応じた変化の準備が整っていきます。

 

 

 

そうしたことがわからないまま、特別な体験を求め、積み重ねると、他者との関係性における対等・平等という考え方から、遠ざかってしまいます。

 

多少でも理解できていれば、ある程度の段階までは到達できます。

 

しかし、そこから先を目指せる可能性があったとしても、理解が足りなければ正しい取り組みができないため、どこかで修正をかけないとあるところから先にはすすむことができません。

 

 

 

遠ざかるというのは目指す全肯定から離れていくということであり、特別な体験がかえって仇となり、より一層自らを正当化して、ますます自分自身に対する特別視を増強してしまうことがあるからです。

 

 

 

「全肯定を目指し、上位意識とのつながりの中でエゴを薄くし、カルマを解消すること」

 

 

 

これが基本だと、いまの私は考えます。

 

 

 

特別なことは、なにかを否定することがあります。

 

全肯定を目指すのであれば、否定を減らすことです。

 

 

 

それ相応のことができるようになって、それに見合った境涯に到達していきます。

 

それ相応のことができていなければ、そういう境涯には到達しません。

 

因果応報はここでも働いています。

 

 

 

ありのままを認めることに少しでも近づけるよう、「つもり」になっていないか、エゴをチェックしてみてください。

 

また、祈りを特別なものにして自分をおろそかにしていないか、考えていただきたいと思います。

 

続き

回りくどく書いていますが、結局のところ何が言いたいかといえば、「お祈りしかありません」という言いまわしに対する、読み手側の解釈が気になっている、ということです。

 

 

 

読み手側が他の選択肢を否定するような解釈をしてしまうと、その後の取り組みがおかしくなります。

 

「お祈りが選択肢の中では一番いいと思います」という意味で解釈すると、他の良さにも目を向ける余地ができますし、なにより否定が入りません。

 

全肯定でありとあらゆるものが全部ある、ということを理解しようとするなら、いろんないいものもあるよね、という考え方でいないとそうはなっていきません。

 

 

 

「他の選択肢は話にならん」という感じで一点集中のように受け取ると、他の事には目もくれず、これ以外は価値無し、ということで、より良いものを探そうとしなくなります。

 

一心不乱、夢中、没頭、エゴが働かないような取り組みはどれでもいいと思うのですが、取り組み方として他を否定したり、これだけが正しい、他は意味がない、というような存在を否定するような解釈をしていると、思っているところとは違う方向に向かっちゃうよ、という懸念ですね。

 

みんなエゴなんだから、どんぐりの背比べで大して違わないのに、「この良さがわからない奴はだめだ」、「私の方がはるかに上で他の連中はレベルが低い」、と勝手な理屈で人を上から見下して裁いてしまい、それが態度に表れて、他者との関係がぎくしゃくしてしまって日常生活がおかしくなったのでは、話になりません。

 

鵜呑みがいけない、ということも、そういう理由からです。

 

 

 

考えなくなると、自分で判断しなくなります。

 

自分を生きていないことになります。

 

それってどうなのよ、ということです。

 

 

 

「続き」で雰囲気が変わりましたが、そういうことです。

 

 

 

ある取り組みの注意点

今日いらしてくれた方の体験について、お話していた内容を一部書いておきます。

 

 

 

その方は、一時的に全体と調和する感覚を得られたそうです。

 

今後の取り組みとして、「その感覚を求めていけばいいのでしょうか」という問いがあったのですが、答えは「違います」でした。

 

 

 

・その体験自体は、それまでの取り組みの結果として考えるようにすること

 

・その結果を追い求めるというのは、結果への執着となる

 

・そうではなく、取り組みが正しかったから結果がでたのだから、これまで以上に自信をもってこれまでの取り組みを続ければいい

 

・そうすれば、おのずと全体と調和する機会が結果として増えてくる

 

・結果に執着して全体に合わせようとすると、自分のそれまでの取り組みよりも全体に合わせることが価値のある取り組みとなってしまい、自分の正しい取り組み自体を否定しかねない

 

・全肯定にはならないよ

 

 

 

といった内容でした。

 

正しいように思えることでも、よくよく考えてみるとおかしなこともありますので、鵜呑みにせずご自身で一度は考えるようにしてください。

 

 

 

正しい取り組みをすれば、正しい結果がでます。

 

まちがった取り組みをすると、間違った方向に進みます。

 

人が何を言おうと、行動に移した人にその結果は返ってきます。

 

人せいにはできません。

 

よく考えてください。

 

 

 

生きる目的

生きる目的というと、人それぞれ、という言い方もできます。

 

 

 

昨日いらした方との会話の中で感じたことは、その方は今生強い想いで「自分の幸せのために生きる」ということをテーマにされているということでした。

 

 

 

しかし、これは皆に共通していえることです。

 

 

 

「自分だけ幸せならいい」ではない点にご注意ください。

 

 

 

方向性を出す際にも、自分の幸せのためということが抜けている方が、時折いらっしゃいます。

 

 

 

方向性をだすというのは、志をもって生きる、という言い方もできると思います。

 

 

 

「人の幸せのために一生懸命」も大事なことだとは思いますが、まず自分自身を大事にしないことには、一番大事な立ち位置と最初の一歩を否定してしまいかねません。

 

 

 

取り組みを意識することは非常に大事ですし、具体的であればなおいいと思います。

 

 

 

一度考えてみてください。

 

 

 

 

 

余談ですが、先週と今週で私の身近な人たちで転んでけがをする方が数人いました。

 

 

 

ケガや事故など、お気をつけください。

 

 

 

 

 

最近は当日のご予約が増えていますが、早い方では8月のご予約をしてくださった方もいらっしゃいます。

 

 

 

来週もまだ空きがございます。

 

 

 

ご検討中の方がいらっしゃいましたら、お気軽にお問合せください。

 

 

 

一週間、お疲れ様でした。

 

 

   

こどもの口からでた言葉

今日、妻が息子と話をしていたところ、不意に

 

 

 

『手間をかけることは大切なことを積み重ねること、勉強になること』

 

 

 

と言い出したそうです。

 

 

 

娘は娘で違うところで、

 

 

 

『自分で生きること~♪大切~♪』

 

 

 

と、このフレーズを繰り返し歌っていたそうです。

 

 

 

妻が気づきを得た内容でもあり、何も話していないのにそんなことを言いだした、と驚いていました。

 

 

 

 

写真は娘作、です。

 

なにを描いたのかはまだ聞いていません。

 

 

 

お祈りなどについて

最近もありましたが、いらしていただいてお話を聞いてもらうことで、修正をかけた方がいました。

 

 

 

具体的な数や個々の内容はわかりませんが、ここを見ている方たちの大半に対し漠然と最近私が感じるのは、取り組み方に問題があるようだ、ということです。

 

 

 

そう感じた理由として、注意喚起を促されているように感じるできごともあり、以前から少しずつ書いてきたことではありますが修正をかけられる方もいるかもしれませんので、お祈りなどの取り組みについて少しまとめておきます。

 

 

 

 

 

コメント欄などでも最近書いていますが、まずお祈りが依存になっていないか、よく考えてみてください。

 

 

 

これはお祈りに限った話ではありませんね。

 

 

 

 

 

特別な存在を見つけ、それにすがることで安心してしまい、それをやっていれば安心と思いこんで、やるべきことをやらなくなってしまうことがあります。

 

 

 

 

 

先日、

 

 

 

『「お祈りしかありません」という言葉の弊害があるよ』

 

 

 

と、上位意識からインスピレーションを受けました。

 

 

 

 

 

それはともすると独善にはまりこみ、最終的には、

 

 

 

「自分だけは特別」

 

 

 

「自分は他の人とは同じに扱われてはいけない」

 

 

 

「自分はこの世界で一番」

 

 

 

となってしまう、とのことでした。

 

 

 

 

 

ブログ「日々の取り組みと祈りについて」「続き」、などで書いた内容と重なるところもありますが、ここは過去に大きな影響があったことのようですので、繰り返さないためにも、再度書いておこうと思います。

 

 

 

 

 

自分の判断に基づき行動し、その結果は行動した人に返ってきます。

 

 

 

まちがった解釈をしてまちがったことをすれば、その結果は自分にかえってきます。

 

 

 

ですから、ブログ「続き」でも書いたように、受け取り手の判断の仕方が大事になります。

 

 

 

人のせいにはできません。

 

 

 

 

 

日々の取り組みで、方向性をださず、否定的な考えを減らしエゴを薄くすることができていないと、特別なことを追い求めてしまいます。

 

 

 

 

 

瞑想を例に考えてみてください。

 

 

 

「日常生活と切り離した瞑想にこそ価値がある」と考えて、瞑想を特別扱いしていると、日常生活を否定的にとらえるようになるかもしれません。

 

 

 

長く深い瞑想ができることにこそ価値がある、という考え方もあると思います。

 

 

 

「日常生活を問題なく生きられるようになっていくことが、意識レベルがあがること」

 

 

 

と私は考えていますが、そうした方向性を出している人にとって、特別扱いする瞑想は否定が残っているため、どこかで行き詰ります。

 

 

 

上位意識との繋がりをつくり、日常生活を問題なく生きられるようになっていく、という考え方であれば、否定的な考えにはなりません。

 

 

 

 

 

また、特別なことをやって特別な体験をした時に、考え方が整理されていなかったり、ものごとの理解が足りていなかったり、正しい理屈がわからない段階だったり、エゴが薄くなっていないと、自分に対する特別視がつよまることもあります。

 

 

 

 

 

ようは、いまの私たちみたいにレベルが低いと、おかしなことに引っかかるよ、ということです。

 

 

 

 

 

特別なことは、当初は「他の人がやっていないこと」なのですが、「他の人ができないこと」にすり替わり、「自分だけが特別な存在」と変わっていくと、「自分が一番正しい」「自分に指導できるのは特別な存在しかいない」と、どんどん深みにはまり込んでいくことになります。

 

 

 

 

 

覚醒しない限りは、エゴ主体でエネルギーが限られ、視野の狭い考え方のような、どんぐりの背比べにすぎません。

 

 

 

 

 

独善に陥ると、そうした上位意識の働きかけがわからなくなり、エゴにとって都合のいい内容だけを認めたり、勝手な解釈にすり替えたり、正しいことを払いのけるようなことまでしてしまうことがあります。

 

 

 

 

 

そして、益々誤った取り組みで誤った方向に邁進してしまい、誰の声にも耳を貸さない状態で、特別な体験に後押しされて歯止めが利かなくなれば、行き着くところまで行くようなこともあると思います。

 

 

 

だから、エゴを薄くすることは大事なのです。

 

 

 

 

 

また、そうした「特別」な人を目の当たりにすると、自信をもって取り組む様に魅せられてしまう人もいることでしょう。

 

 

 

自分で判断することを放棄し、「なに」ではなく「誰」を信じて鵜呑みにして、これしかないという強い思い込みから基本的な取り組みさえも疎かにする人たちは、魅了されて付き従っていくことになります。

 

 

 

 

 

この辺りは、「自分がない人がどうなるか」ということで、宇宙全史の別巻「20年後~」の中にも書かれていました。

 

 

 

 

 

「上位意識を使わない限り正解は見えてこない。」

 

 

 

私たちよりもはるかに正しくものごとがわかる上位意識の導きや指導がないと、エゴの私たちには正しいことがなんなのかわかりません。

 

 

 

これがお祈りの目的でもありますが、取り組み方によって結果も変わることをいちどしっかり考えていただきたいのです。

 

 

 

 

 

やったことの結果しかでません。

 

 

 

「この人」や「お祈り」に、(やることやらないで)すがっていればまちがいないだろう、安心だろう、であぐらをかいてしまっては、エゴもカルマもよくなってはいきません。

 

 

 

やるべきことをやらなければ、正しい方向性には進まないですし、基本的な取り組みをやれば、それだけ前に進みます。

 

 

 

 

 

特別な体験は、それまでの取り組みの結果として、取り組みの正しさを証明するご褒美のような場合もあります。

 

 

 

しかし、私たちはよく考えずにいると、それまでの取り組みで目指していた方向性ではなく、無意識にそのご褒美に照準を合わせてしまい、これまでの取り組みとは違うことをし始めてしまいます。

 

 

 

それでは思うような結果が出るはずもありません。

 

 

 

 

 

そのあたりのことはすでに以前のブログでも書いたとおりです。

 

 

 

「そうした鵜呑みや考えないで盲信することで、かつて予定されていたことが大幅に延期された」、そういうことがあったのかもしれない、そう感じています。

 

 

 

 

 

私もまだできていませんが、成長すれば、あてにしたり依存しなくても、自立して生きていけるはずです。

 

 

 

自らを成長させることを忘れないでください。

 

 

 

まとまりきらない内容ですが、ここまでで今回は掲載しておきます。

 

 

 

 

 

そういえば、今日は夏至なんですね。

 

 

 

すっかり忘れていました。

 

 

 

これまでの取り組みの結果がどうでるか、それをもとに今どうするのか、チェックされるといいと思います。

 

 

 

 

 

(※昨夜掲載したものは文章が粗かったので、内容をところどころ書き直して再掲載しておきます。)

 

 

 

 

 

 

メモ 五井先生 お叱り

先日、YouTubeで五井先生の動画を見ていて、感じることがありました。

 

「鼻歌混じり」の一言が印象的です。

 

 

 

「五井先生の珍しいお叱り ①」

 

 

 

「五井先生の珍しいお叱り ②」

 

 

 

 

メモ 否定とゆるしとエネルギー

『体験した人の言葉には力があり真実がある。

 

 

 

その人の言葉を信じられたなら信じた人も力と真実に近づくことができる。』

 

 

 

 

 

昨年の12月だったと思います、これまでの人生のすべてを肯定できるかのような幸せな感覚に包まれたことがありました。

 

 

 

いま幸せと思えることで、これまでのすべては無駄ではなかった、それらがあったからここに至った、そう思える体験でした。

 

 

 

 

 

それを踏まえて考えると、一定の結果を出せた時、自分のそれまでの道筋を肯定しています。

 

 

 

失敗や不足に誤りなど、否定的に捉えがちなものも肯定できます。

 

 

 

 

 

「存在するものはすべてエネルギー」というお話が、以前宇宙全史でありました。

 

 

 

肯定することにより、存在を認めることになります。

 

 

 

否定することで、存在を認めないことになります。

 

 

 

 

 

存在を認めることで、その存在がもつエネルギーを認めることになり、自分の人生の道筋にあるエネルギーをすべて認められたなら、そのエネルギーの総量は相当なものになります。

 

 

 

自分のそれまでのことを全肯定できて得られた幸福感というのは、そうしたそれまで否定的にみてきて蓋をしてきたエネルギーの蓋を開けたことにより、それまでの通常のエネルギーの総量とは格段にちがうエネルギーを得て発露した幸福感ではないかとおもったのでした。

 

 

 

(この時の順序は逆で、幸福感があり、その後、過去を肯定していることに気が付きました)

 

 

 

 

 

過去をゆるすこと、否定的に見てきたものを肯定すること、そうすることで存在を認めるため選択肢が増えます。

 

 

 

選択肢が増えるということは、個々の存在はエネルギーですので、扱えるエネルギーが増えるということです。

 

 

 

よりよい選択をすること、選択肢が増えて頻度も増えれば、循環するエネルギーの総量も増えることになります。

 

 

弱肉強食なので、エネルギー量が多ければ、邪魔をするものも減り、やりたいことに注ぎ込めるエネルギーも多いことから、思い通りになることも増え、生きやすさが増していくことがわかります。

 

 

 

 

 

もう少し整理が必要ですが、とりあえず掲載しておきます。

 

 

 

今週は空きに余裕がございます。

 

 

 

ご予約・お問合せをお待ちいたしております。

 

 

 

 

 

ディセンションについて

さきほど患者さんとお話ししていて出てきた内容です。

 

 

 

いま目の前に起きていることは、これまでの自分の取り組みの結果です。

 

 

 

現状に不満をかかえて環境を変えようとしても、誰かのせいにして行動に移せば、結果として目の前に現れる新たな環境は、誰かのせいにしたなりの環境となって姿をあらわすことになります。

 

 

 

いま目の前のことが大事とわからないまま取り組む毎日は、「ここではないどこかに自分にとって理想の環境がある」という思い込みのもと、一番大事なものをおろそかにするものであり、その結果は、自分がおろそかにされる環境となって現れることになるのです。

 

 

 

ここではないどこか、は自分がおろそかにされる環境。

 

 

 

それがディセンションの一つの解釈だそうです。

 

 

 

 

 

メモ 弱肉強食の負荷とカルマ

これこそ本当にメモですので、また整理できたら書きたいと思います。

 

 

 

・弱肉強食での強者から弱者への負荷

 

・それがカルマになるのは、弱者の受け取り方

 

・強者がカルマを負うかどうかとは違う

 

・進化の一手段?

 

上位意識と繋がることについて

これまで資料やお話にブログでも、「上位意識と繋がる」ことを取り組みの要としてお伝えしてきています。

 

 

 

上位意識との繋がりに関し、今にいたるまでにいろいろありましたが、一つ言えることは、「真剣に集中する」ということです。

 

 

 

お祈りの意味もわからない頃は、なんとなく出たとこ勝負で繋がろうとし、何も考えずボーっとしていればいいや、という感じでやっていました。

 

 

 

段階があがっていく過程を経て、より深い集中をしないとキャッチできないようになっていきました。

 

 

上に行くほど繊細で緻密であるなら、それはごく当たり前の理屈です。




やるときは集中する分、けっこうくたびれることもあります。




てきとうにやったのでは、その集中状態にはいっていけない感じです。




繰り返しの中でできるようになっていった実感があります。

     

 

 

方向性を出したうえで、熱中したり、没頭したり、夢中になることによって、エゴが働かずに上位意識とのつながりを得やすくなります。

 

 

 

繋がるまでが大変です。

 

 

 

真剣に、より深い集中で、がポイントだと思います。

 

 

 

余談 アニメの影響

先日いらしてくださった方と、施術後に世間話をする中で出てきたものがありました。

 

 

 

話していた内容は、アニメについてです。

 

 

 

タイトルは省きますが、平凡な日常を描く人気アニメがエゴにどういう影響を与えているのか、あるSFアニメが私たちの意識にどういう働きかけを行っていたのか、そうしたことが言葉として出てきたため、その内容に納得できたこともあり、面白かったです。

 

 

 

もちろん、ある特定のアニメについてであり、すべてのアニメに当てはまる内容ではありませんので、ご注意ください。

 

 

 

「永遠の生命」を、ある状態を手に入れることで得ようとする、というお話だと、それだけでは特にみえてくるものはないのですが、そこからもう一つ設定を加えることで、私たちは魂の永遠性というものに対してあまり意味がないものということで否定的になり、興味が薄くなってしまうようです。

 

 

 

そうなることで、エゴの「見えるものしか信じない」というものが育まれることになり、魂の進化ということにも意識が向きづらくようでした。

 

 

 

平凡な日常を描くことで代わり映えのしない変化を嫌うエゴを助長することもあれば、死を描くことでそうした平凡なアニメとは違う方向性を求めた作品もあるなど、関連付けて話が出てきたのでわかりやすかったです。

 

 

 

そして、いかにこれまでなにも考えずにテレビを見続けてきたのか、ということも感じ、「自分で判断する」ことを日常のあらゆるところで行っていかないと、自分を生きることにならない、ということも教えられてわかりかけています。

 

 

 

なかなか「わかりました!」とすっきり言えない経験を多数重ねてきているため、実際にできるようになるまで時間がかかります。

 

 

 

地道な取り組みの継続が大事だとも思います。

 

 

 

 

 

途中です

昨夜、「自由」などについて考えをまとめていたため、そのことをブログに書こうとしたのですが、他との関連も考えるうちに収拾がつかなくなってしまいました。

 

 

 

今日明日に一度まとめ、断片でもこちらに掲載できればと考えています。

 

 

 

私自身、現在進行形で理解に努めていることもあります。

 

 

 

応用が利かない、言葉が足りない、実践できていない、そういったこともありますので、できるところから取り組んでいます。

 

 

 

いまは資料にするよりもこちらに書くことで、小出しでいいので早めにみなさんに読んでいただき、理解につなげていただければと考えています。

 

 

コメント欄に書いていただいたことひとつひとつが、皆さんの学びになることもありますので、そちらも読んでみてください。

 

 

 

具体的な返しは内容によってできないこともありますが、できるだけ今のうちにお答えできることはお答えしていきたいと思います。

 

 

いらしてくださった方に対しても、できる限り質問にはお答えするようにしているつもりです。

 

 

 

聞きたいことや、うまくいっていないこと、自分なりの見解を用意してご質問いただけると、こちらもより具体的に踏み込んだお話ができるかもしれません。

 

 

 

限られた時間と思い、過ごしています。

 

 

 

ご来院に際し、ご質問がある方は効率よく過ごしていただけるよう、ご協力をお願いいたします。

 

 

もちろん、施術はマッサージだけでも承っております。

 

 

 

ご不明な点等ございましたら、お気軽にお尋ねください。

 

 

 

影響を受けること

先日もあの方のお話を聞き、ここ数日は「影響を受ける」ということについて考えていました。

 

 

 

そこから派生して、「自由」ということにもつながってきたのですが、まだまとまりきらないため、一部整理してこちらに掲載しておこうと思います。

 

 

 

 

 

私たちは、エゴ主体で生きています。

 

 

 

エゴは全体の一部分であり、不完全です。

 

 

 

不完全なので、一人では生きていけません。

 

 

 

なんらかの関わりを他者ともちながら、それぞれの生きたいように生きています。

 

 

 

不完全であるため変化し、他者との関わりで影響を受けることもあります。

 

 

 

自分がない状態だと、とくに影響を受けやすくなります。

 

 

 

 

 

いつも理屈として理想的なことを書いてはいますが、エゴとして様々な影響を受けることがあるのは当たり前のことです。

 

 

 

「失敗も間違いもするよね」

 

「でも、そのまま放置するのではなく、反省して少しでもよくすればいいんだよね」

 

と考えられると、意欲をそぐことも、あまりありません。

 

 

 

こういったことを認めないと、完璧を求めすぎて自分を責めるようになるため、ご注意下さい。

 

 

 

 

 

方向性を出しているのであれば、なにを目指していて、自分がどうなっていきたいのか、それを踏まえてものごとを考える必要があります。

 

 

 

一生という、人によって期間もまちまちな時間制限がある中、少しでも結果を出せた方がよりいいですし、結果がでなくともなるべく近づけたほうがいいと思います。

 

 

 

後悔なく生きられればいいのですが、なんにせよ、限られた時間内に出した方向に少しでも進むには、効率的に良い影響を受けた方がいい、ということです。

 

 

 

 

 

なにも考えずに関われば、いい影響を受けることもありますが、進歩しないこともありますし、足を引っ張られることも少なくありません。

 

 

 

私たちには自由があり、自分で決めて行動に移す際、どうしたいのかを選ぶことができます。

 

 

 

2択のようなものもあれば、5択、10択、それ以上の選択もあるかもしれません。

 

 

 

複雑な選択肢の中から最善を選ぶ難しさは、意識レベルを上げていくうえでもいい課題にはなります。

 

 

 

また、シンプルな2択であっても、大事なことや正しいことがわからないと、間違えることがあります。

 

 

 

 

 

「一度に一つ」しかできない中で成長を志すならば、それを選んだ結果が自分にどういう影響を与えるのか、自分にとって得なのはなんなのか、よくよく考えて選んだ方がいいのは、ある程度分かっていただけるのではないでしょうか。

 

 

 

自分の取り組みの結果の積み重ねが、自分の運命です。

 

 

 

自分の運命をよくしようと思ったら、選択をしっかりしていかないことには、どこまでも人任せにし、根拠のない運任せにはまり込んでしまいます。

 

 

 

 

 

「自分が自らの運命をつくっている」と自覚することは、これからの時代ではとくに大事なことです。

(※ このことは、いらしてくださった方にその理由をお話ししていますが、聞き流している方もいるようですので、なぜ大事なのか思い出せなければ、いらしたときにでもご質問してください。) 

 

 

 

 

人に言われるがまま、よく考えもせずに従ってやったことが大失敗だったら、後悔しますよね。

 

 

 

ベストを尽くして自分でしっかり考えたことの結果であれば、人のせいにはできませんし、責任も素直に認められるはずです。

 

 

 

これが、葛藤が生じない、ということです。

 

 

 

 

 

「エゴだから影響を受けやすい」ということを自覚すれば、真剣にものを考えるきっかけになると思います。

 

 

 

経験によって、自分にとって大事なことがなにかをわかりやすくなるように思えます。

 

 

 

しかし、エゴでの判断はどこか不完全なため、きちんとした成長を目指すのであれば、真剣に考えることで上位意識とのつながりを育み、より的確に正しいことの判断をつけやすくしていくことが大事です。

 

 

 

 

 

「どれが正しいか自分で判断しなければ自分を生きてるとはいわない。」

 

 

 

「上位意識を使わない限り正解は見えてこない。」

 

 

 

これらを踏まえて考えていただくと、いいと思います。

 

 

 

 

 

雨や明け方の冷えで、体がなんとなく冷えている方もいるかもしれません。

 

 

 

ときどき書いていますが、シャワーでなく入浴をしっかりしていただくことで、疲れも抜けてきます。

 

 

 

また、足が冷えているのに自覚がない方もいます。

 

 

 

サポーターでは窮屈なので、足先だけ切った靴下をはいて寝てもらうと、足首が冷

えなくていいと思います。

 

 

 

気になる方は、自分でも考えて試してみてください。

 

 

 

 

 

写真は、昨日息子が新江ノ島水族館で実物を見ながら描いた、ロブスターです。

 

 

 

写真を見て描くこともありますが、動物園や水族館では、実物を見ながら動いているものを描くようにしています。

 

 

 

ようやく、「生きている感じがする線」が描けるようになってきた、そんな感じがする作品です。

 

 

 

 

 

雑記

なるべく今はブログをアップして、少しでも考えていただく機会をつくりたいと思っています。

 

 

 

今日は特別テーマが見当たらないこともあり、思いつくままに書こうと思います。

 

 

 

 

 

先日、久しぶりにあるできごとがありました。

 

 

 

その中で発した言葉、態度、そうしたものを一つずつ考えてみると、できていないことがみえてきます。

 

 

 

やることがやれていればそもそもそうならないわけで、できていないこと、できていること、それらをチェックをする機会になりました。

 

 

 

私自身は知識は入っているものの実践での理解が足りないところもあるため、課題はまだまだありますし、先はまだまだ長そうですので、地道にできるところをやっていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

時々、近況をメールしてくださる方がいらっしゃいます。

 

 

 

メールから、ご本人なりにがんばっている様子がわかります。

 

 

 

がんばっていても、大変と感じる中で自分で決断していかなくてはいけない、そういうことも時にあります。

 

 

私たちは、厳しい状況で真剣に考えさせられることがありますが、そこで大事なことに気づくことで、前に進めます。

 

 

 

自分がどうしたいのか考えることで、気持ちの整理がつくこともあれば、「現状」がこれまでの自分の取り組みの結果なんだとすなおに受け入れることで、甘い期待を止めて自分に向き合い、自分に正直に生きられるようになることもあります。

 

 

 

否定的な考えが、自分の選択肢を減らしてしまいます。

 

 

 

行き詰った時には、そうした否定的な考えに気づけると、今まで隠れていた選択肢が

姿を現します。

 

 

 

自分に向き合うことで前に進むとき、なにか否定的な考え方を変えることができています。

 

 

 

 

 

まとまらない文章ですが、今日はこれでアップしておきます。

 

 

 

 

 

前提、など

昨日、ひとつ自分にあった思い込みに気づけたので、これまでここでは宇宙全史を知らない方の不安をあおることになるかと思い、あまり書かないようにしていたことがありますが、一度書いておきます。

 

 

 

 

 

私はこれまで、宇宙全史というワークにかかわらせていただき、月読の大神の許可のもと、いまは講師という立場でいらしてくださった方の意識レベルの向上に努めています。

 

 

 

その際に、お話ししていることの前提として、宇宙全史で本のタイトルにもなっていますが、

 

「これから多くの方たちが亡くなっていきますよ」

 

ということがあります。

 

 

 

にわかに信じがたい方もいるでしょうし、結果がでてみないと実証もできない話です。

 

 

 

信じる信じないはその方の判断にまかされます。

 

 

 

(※詳しくは、宇宙全史別巻「20年後 世界人口は半分になる」でご確認下さい。状況の変化もあり、書かれている内容は、さらに変わっているところもあるようです。)

 

 

 

そうした前提のもと、いらしてくださった方には、私がひろかねさんという方から教わったことや、上位意識とのやり取りをもとに確認した日々の生活で心がける大事なことなどを、お話ししています。

 

 

 

私自身は上位意識からの情報で信じていることをお話ししていますが、自分の運命をつくるのは自分の判断ですので、ここでも「誰」が言っているかではなく、「なに」を言っているかを皆さんに考えていただく必要があります。

 

 

 

 

 

また、宇宙全史関連でブログに書き込みをしてくださったり、メールをくださる方がいます。

 

 

 

マナーというか、お会いしたこともない方ですので、「だい様」という書き方は分かるのですが、この時点で私に対する「特別視」が色濃く出ていることが少なくありません。

 

 

 

そういった方は、「お祈りしかありません」の弊害 (※ブログ「お祈りなどについて」参照) と同じで、なにかを絶対視したり特別視して、その下についてしまえばもう安心、となって自分では判断をしなくなり、大事なことは何も考えなくなってしまう可能性が非常に高い方たちです。

 

 

 

その姿勢は、私からおすすめすることがないものです。

 

 

 

大事なこととしてお伝えしていることは、前提の有る無しに関わらず、生きていくうえで非常に役に立つ考え方であると自負しています。

 

 

 

ただ、前提自体を私は信じていることもあってそれを踏まえてお話することもあるため、ここでなにか学ぼうという気持ちのある方は、そこも一度は考えるようにしてみてください。

 

 

 

考えることで、自分はどの立ち位置にいるか、なんとなく意識するようになります。

 

 

 

そこから「どうしていきたいのか」さらに考えていただき、私がこれまでブログで書いてきたことを読んで納得がいくようでしたら、いらっしゃれるようでしたら話を聞きにご予約をとっていらしてください。

 

 

 

特別視をおすすめしないということも、どうしていきたいかを考えていただくことで、より理解できるはずです。

 

 

 

 

これからの時代、結果がでてからでは遅すぎることがあり、意欲があってここで学ぼうとしてくださる方たちに対して私が後悔のない人生を望むようにもなってきていますので、主にいらしたことの無い方に向けての内容ではありますが、一度書いておくことにします。

 

 

  

 

 

捻じ曲げられたもの

 

『宇宙全史1』のP.84

 

 

「愛の概念が捻じ曲げられていた」

 

「だからあなたを呼んだ」

 

「ただすこと」

 

 

 

これに関して、最近ブログで書いてきたこととの繋がりを昨夜感じ、そこから整理していました。

 

 

 

きっかけについては具体的に書きませんが、五井先生の思いを感じた気がしたことで、今回考えるようになりました。

 

 

 

結論から書くと、「自由」を捻じ曲げられていた、ということになるようです。

 

 

 

この理由については、ざっと書いておきます。

 

 

 

 

 

なにかにすがってしまえば、考えることを止めてしまいます。

 

 

 

判断しなくなれば、自由がないということになります。

 

 

 

 

 

人は命であり、命は愛、といえます。

 

 

 

なくならないこと、永遠の生命を生き続けること、それらは愛です。

 

 

 

自分を生きることは、自分で判断することです。

 

 

 

判断するということは、自由があるからです。

 

 

 

ですから、命や愛など、それらは自由をベースにしています。

 

 

 

 

 

考えなくなってしまうことで自由がないと、自分を生きているとは言わない状態です。

 

 

 

自分で判断することにより、よりよい方向を目指せるので、依存することで判断できない、考えられない、というのは、良くなる方向性(意識の進化を目指す)を出していないということになります。

 

 

 

 

 

「自分の自由に生きる」、これまでこのことが誤った思い込みにより出来なくなっていたので、これからは「自分の好きなように自分で決められるほうがいいよね」と、考えられるようになるといい、ということです。

 

 

 

「自由に生きること」、このことを理解できるようになることが、「ただすこと」になります。

 

 

 

五井先生のお祈りの意味もわかってできれば、しっかりフォローをしてくれるはずです。

 

 

 

 

 

「神の愛と言われているものは意識の進化を望むもののみに適応される。間違った方向に進んでいる人間は助けたくても助けられないのが本当のところだ。」

 

 

 

「上位意識を使わない限り正解は見えてこない。」

 

 

 

「どれが正しいか自分で判断しなければ自分を生きてるとはいわない。」

 

 

 

「五井先生の真意を今生きている人はだれもわかっていないと思う。わかりかけの人は少しずつふえてきてはいるが。」

 

 

 

 

 

ご連絡など

明日は「17時 ~ 」営業と掲載していましたが、さきほど予定を前倒しにして済ませられたので、「15時 ~ 」の営業に変更させていただきます。

 

 

 

ご予約をお待ちいたしております。

 

 

 

 

 

施術の感想をくださった方がいて、「患者様の声」を一年以上ぶりに更新できましたので、ぜひ一度読んでいただければと思います。

 

 

 

 

 

余談ですが、今日は自分の名前の意味が少しわかった気がします。

 

 

 

結果が出た時にその確認がとれるとおもっているので、それが正しいかどうかはいまはわかりませんが、今日感じた通りの意味であれば「頑張ろう」と思えます。

 

 

 

昨日書いたブログにしても、書いていて自分でまだ理解できていないことだとわかります。

 

 

 

それでも、書けるうちに書いておかないと、それが次にいつ出てくるのかわかりません。

 

 

 

いまできるうちに、できることをできるだけ、そういう書き方でした。

 

 

 

 

最近は「いつ死んでもいい」という気持ちになることもありますが、エゴなのでなにかしら影響を受けて変わることもありますし、実際にそういう場面になれば未練たらたらの本性が姿を現すかもしれません。

 

 

 

自分のことは、わかるようでわかりませんね。

 

 

 

最近はあまり余計なことは考えないで、信じることを一生懸命やっています。

 

 

 

 

個別のことですが

人によって違うので一概にいえないことですが、大変な時期に入っている、そう思えるようなケースがまばらに出てきています。

 

 

 

今日いらした方との会話で感じたケースは、私の妻の以前のケースと似ていました。

 

 

 

自分の内面奥深くからでてくるものだと、無意識でやっているため、やはり最初はわかりづらく大変です。

 

 

 

しかし、それをコントロールできるとわかると、やたらに振り回されることは徐々に減っていきます。

 

 

 

方向性をだすこと、エゴのチェック、エゴのコントロールなど、こうしたことひとつひとつを取り組んできてできるようになっている人は、今後その取り組みの結果を受けてどう感じるでしょうか。

 

 

 

後悔がないようにできることを少しでも増やしておくと、選択肢が広がる分、気持ちがちがうと思います。

 

 

 

今年も半分終わりましたね。

 

 

 

明日はまだ少し空きがあるので、気になる方は一度お問合せください。