癒すということについて

最近、癒すということについて考えています。


なにかを付加するような感じで以前は捉えていましたが、その人(生き物)が本来もつエネルギーが流れる状態にすること、向かうべき方向の途上に立ち返ること、と考えるようになってきました。


安易にエネルギーという言葉を使いましたが、エネルギーがどういうものかはわかっていません。


イメージでしっくりくるため、そう表現しておきます。


この後使う言葉もそれぞれわかっていないまま使いますので、独り言と思って読み流していただけると助かります。


「本来」とは、あるべき姿とでもいうのでしょうか。


今後少しずつ理解に努めていこうと思っていますが、本心の発露がスムースになされている状態、エゴという覆いが少ない状態です。


意識や想いのもっていきどころが人それぞれ違い、そこにぴたっとはまった状態が天命を生きていると考えています。


そこを点、Pointと考えると、癒しが起こるのはその点を中心とした周辺、Areaあたりかなというのが実感しているところです。


エゴはこのPointやAreaも覆っており、Pointまでの距離感がエゴの濃淡ではないかと思います。


ありのまま、という言葉がありますが、それはこの場合はArea(Pointを含む)ではないでしょうか。


わがまま、というのはその外だと思います。


わがままになると、他との協調性が無くなり全体の調和という方向性を見失います。


ですから、似た言葉ですが、随分意味合いが変わってくるような気がしました。


わがままでは内からのエネルギーの流れから外れているため、外から補うしか方法がありません。


補う方法が健全であればまだいいのですが、協調性が薄くなるため奪うという手法に傾倒してしまいます。


アドバイスをくださった方がおり、最近施術をしていて生き方に関しての変化が著しい方の特徴として、方向性が出てきたことによるものが多いのではないかと考えるようになりました。


方向性とは、PointもしくはAreaに意識が向いている、ということです。


そうすると守護してくださっている方たちもサポートがしやすくなるようで、追い風が吹くように変化が加速しているかのようです。


御祈りそのものは、方向を定めやすくもしてくださるように思います。


自分がその中心方向に向いているかどうかの指標は、宇宙全史のカルマの章に書かれている「生きがい」であり「やりがい」だと思います。


個人でそれが達成できることであるならばそれはそれでいいのですが、道を外れてしまうことのほうが圧倒的に多いわけで、そこで他者との関わり、自然とのふれあい、そうしたもので軌道修正がなされていきます。


そのことを癒しと考えればいいのかなと思いました。


普段の生活の中で様々な役割を人は演じています。


仕事でいえば役職と考えるかもしれませんが、生活も含めて考えると、親であり子であり、妻であり夫であり、知人、友人、隣人、変人(?)、そうしたことを演じています。


それぞれがそれぞれを演じ切ることで、お互いを癒すことができ、自分であることで自らをも癒せる力が人にはあるようなきがしています。


先日の帰省からの帰り道、目の前に広がる山々を見ながら、私が癒されていることがわかりました。


山はただ山としてそこにあるだけでした。


しかし、山が山としてあるだけで、そこには数多くの動植物があるがままの姿で生息し、遠くからながめる私でさえも癒してくれます。


施術でいうならば、施術者の私が施術者であり続けることが大事で、情に囚われると施術者ではなくなります。


施術に限らずその人がその人であることで、全体と調和した本来のエネルギーの流れが保たれるようになるのであれば、癒しがつねに起きているとも考えられます。


自分の役割を日常生活、家庭、職場、社会できちんと果たすことが、自他を癒しながらそれぞれの天命に生きることに通じるわけです。


整理がつかなくなってきたので、今回はここでやめておきます。