良いものは、良い

 

先日、ある方とお話していて気づいた自分の思い込みがあります。

 

「エゴのやることはわるいことに違いない」

 

これまでいろいろ教えていただいて、理屈は分かってきていたつもりでしたが、本心とエゴの見極めについて考えていたところ、そのことに気づかされました。

 

 

 

エゴであっても、良い考え方をすることがあります。

 

 

 

考えてみたら当たり前で、覚醒しているわけではないので、これまでほぼエゴだけで生きてきたはずです。

 

にもかかわらず、以前よりはマシな生き方ができているのは、エゴだけとは言いませんが、それがいい方に働いたからと考えてもおかしくはないな、と。

 

ところが、これまでの思い込みだと、エゴを否定してしまっていました。

 

目的がよりよく生きること、だった場合、エゴであっても内容を検証してみて、納得できるものなら、無理に本心と区別する必要はないんですね。

 

まだまだ理解が浅いことを実感しました。

 

それでも、そのことがわかっただけでもかなり嬉しかったです。

 

 

新刊に書かれていた空海の「反省」は、「良いエゴ」のいい例ではないでしょうか。

 

習慣化させて無駄なエネルギーを浪費しない、というエゴの傾向を上手に利用し、反省を習慣化することで、エゴを使って成長していくことが出来るということを実証してくださっていると思います。

 

 

 

少しそれますが、求聞持法について。

 

それ自体はよくできた道具のように考えています。

使い手の境涯を反映させてくれるもので、良くできた超一級品の包丁で例えて考えてみました。

 

超一流の技術を持つ方が使えば、その技術や才能を遺憾なく発揮させて超一流の料理を生み出しますし、私が使えば料理は下手なりに仕上げられる程度のもので、むしろ手を切りかねないよく切れる包丁となり、狂気を帯びた方が使えば凶器にもなりうる、そんなイメージです。

 

 

 

なんにせよ、そうしたいい習慣を身につけていくことは、成長を求める生き方には非常に有意義なことなんだと思います。

 

 

薄まってきてはいますが、私には話を鵜呑みにする性分があります。

 

それは、だれかを特別視することでその方の発言等をすべて正しいと思いこんでしまうため、その内容を観察して検証するような考え方をしません。

 

そういうことにはきちんと頭を使っていかないと、誤った情報や考え方により翻弄されていきます。

 

反省する、ということを身につけていくには、やはり考えるということが大事になりますね。