整理中のことをすこしまとめた状態で残しておきたいので、備忘録として掲載しておきます。
メモですね。
全体像としてはまだまだで、とりあえず一部分をまとめた感じです。
とはいえ、いくつかに項目分けできる内容を一つにまとめて書いてあるので、長いです。
人に分かりやすく説明したり、読んだ方の理解が進むようにするために、いずれ項目分けして書くつもりではいます。
自分向けのものを掲載しているということでご勘弁を。
施術でなにか変わることもあると思いますが、こうしたことの理解がどれほど自分を成長させてくれるのか身をもって実感していますので、これを読んでそう思えた方は次の節目までにレベルを上げられるようご自身でも頑張ってください。
いらしていただければ、これらを踏まえてお話もします。
施術前に限らず施術後日も、なるべく質問する前にこの内容の理解に努めていただけると助かります。
そうしていただくと、いらした時にどこがどうわからないか聞いていただけたますので、その方が貴重な時間を有意義に使えると思います。
よろしくお願いいたします。
写真は息子との久々の合作です。
無意識に働く「エゴ」というものがある。
「エゴではない自分」を「意識的な自分」と、とりあえず考えてみる。
「意識的である」とは、「考えている」ということ。
「生き方を変える」という言葉を例にとった場合、それを他の言い方に置き換えてみると、「考え方を変える」と言い換えることが出来る。
つまり、「生きること」は「考えること」。
「真剣に生きる」とは、「真剣に考える」ということ。
「想い(考え)・言葉」によって「行動」がなされ、その「結果」が「運命」となっていく。
真剣に考えれば、真剣に行動し、後悔のない結果がでる。
真剣に生きてその日を感謝で終えることができたなら、その感謝の気持ちでお祈りした時に、お祈りと合致した自分である。
「考える」とは、本心がエゴをコントロールする働き。
しかし、無意識の働きは「思い込み」という形でも存在し、「考える」ということにも巧みに入り込んでいる。
この入り込んでいる思い込みは、他人の考え、自分の考えではないもの。
だから、「考えること」はエゴをコントロールするために必要な働きではあるけれど、その働きの精度を上げるには、まず「思い込み」というものをなんとかしないと、なかなか思うようになっていかない。
つまり、自分の中にある他人の考えに気づいて、それをどうするか一度考えてみる。
例え他人の考えであっても、それが自分の方向性に合致して「いい方向性」を出してくれる場合もある。
「いい経験を積んでいる物事をわかっている人」や「きちんとした覚醒者」の話などはそのいい例。
しかし、エゴのフィルターもあるので、内容をよく見なくてはいけない。
「誰が言っているか」ではなく、「何を言っているか」。
エゴベースで生きている社会なので、濁りが混じっていて当たり前。
否定的に見ないで、「どこに大事なことがあるのか」で読み解く。
神のふりしてダマす存在もいる。
凡夫のふりをして、真理を話す存在もいる。
鵜呑みにしない。
「覚醒に近づく」か「覚醒するまで」は本心の働きが不十分なので、エゴが生きることをカバーしている。
エゴは本心に代わって身を守る働きでもある。
無意識の働きなので、意識的ではない、ということ。
意識的でないため、癖として自動的にパターン化されたものを実行する。
意識的であれば思うようにしていけるが、無意識である限りは「本心の都合」と「エゴの都合」は異なることが多いため、思うようにならないことが多い。
一方で、時に無意識の働きが思うような結果に導くこともあり、それはその人にとってエゴがいい働きをしていることになる。
エゴは限られた範囲の中で物を考える。
理屈にしてもそう。
「本心が発露するまで生き残ること」がエゴの当面の大きな役割なので、エゴはそれを全力で行うが、限られた範囲の理屈で動こうとするため、大きな視点から見ると「理屈に合わない考え方で好き勝手にしようとしている」ように見えてしまう。
しかし、エゴにとっては目的に合致したそのレベルでの行動なので、いいわるいの話ではないし、ウソもない。
しかし、その行動のもとが他人の考えで思いこまされていた場合、それは本心とは違うからウソになる。
「他人の考え」で「行動」して、「自分のおもうような結果」になることはまず無い。
「自分の想い・考え・言葉」に基づいて「行動」したものが、自分の思うような結果になった時、思うように生きられる「いい運命」といえる。
「自由に生きられている」といえる。
素直とは後者であり、前者はウソのある生き方。
エネルギーをかすめ取る仕組みとは、そういうウソを仕込むこと。
陰始度とは、そうしたウソのことではないか。
だから、本心に素直に生きられれば、陰始度はあまり気にしなくてもいいもの。
「素直に生きるための意志の強さ」があれば影響を受けづらいとしたら、その意志の強さを磨けばいい。
意志の強さとは、自信。
自信とは自分のやってきたこと(実績)を認めること、それを信じること、根拠にすること。
自分や他者のできなかったことを責め、否定する癖は、自信をつけさせない。
自他を責めて否定する癖が思い込みとして仕込まれている。
そのことに気づくこと。
気づいて変えていくこと。
それができると意欲が出てくる。
意欲はエネルギーとなる。
自分の中にエネルギーの源泉を見つけて理解すれば、外からエネルギーを集める必要はなくなる。
人から奪う必要がなくなる。
人を支配したり、身の安全のためと勘違いして支配される必要が無くなる。
思うように生きられたら、自由に生きられたら、意欲はもっとわいてくる。
自由に生きるとは、外にエネルギーを求めないこと。
自他の自由を認めるとは、自分や人の自由を否定しないこと。
意欲を奪うようなことをしないこと。
真剣に生き、真剣に考え、全力で生き、それが素直な想いに基づいており、ウソ無く自由に生きられるようになれたなら、20年後も地球に残るということ。
真剣に生きるために、真剣に考えるためには、思い込みを無くしていくこと。
エゴを無くすとは、思いこまされた他人の考えを改め、自分の考え方に変えていくこと。
だから、エゴを無くすというよりは、エゴを薄くするでいい。
否定する必要はない。
否定することは、無くしてしまえ、ということ。
無くす必要のないものならば、エゴを否定するのではなく、その存在を認めてどうしつけていくか考え、どうコントロールするか意識すればいい。
野放しな自然もいいが、手を加えることで活きる自然もある。
原人のエゴはおそらく前者であり、前者のような境涯に至らない私のエゴは後者となる。
簡単にまとめれば、「素直に真剣に生きることが大事」。
無意識に働くエゴが強いならば、私達の場合は真剣に生きているか考えてみるといい。
そこから何かが見えてくる。
見えてこないならば、まだ考え方が足りないということ。
真剣に考えることでエゴが薄くなり、エゴが薄くなれば全体性とのつながりから全体性のエネルギーが流れ込む。
そのエゴではない全体性からのエネルギーが流れ込んでいたら、なにも気づけないはずがないから、見えてこない、気づけない、というのはまだ考え切れていないということ。
「難しい」の口癖で考えようとしないのは、考え切らないで途中であきらめる傾向の現れ。
自他を否定的に捉えることで、やり切る意欲を削いであきらめてしまうこともある。
地道にやらないと、なかなか変わらない。
途中で否定したり責める癖が意欲を損なう。
その癖も気づいたら変えていくといい。
気づいたところで変えていけばいい。
エゴを抱えて生きていれば、全体性で生きているわけではないから、完ぺきにやれるはずもない。
不完全さを認めて、修正しながら生きていくことをすればいい。
その延長上に空海がいる。
空海はそれをやっていた。