ありのままとエゴについて

 

以下、思ったことです。

 

私もばっちりエゴを抱えて生きているので、間違えることも当然あります。

 

鵜呑みにしないで、考えるたたき台にしてお読みください。

 

一部内容が混乱をまねくかもしれませんが、掲載しておきます。

 

 

 

「ありのまま」は「全体性としての私」の方向性の基点だから、ここにたどりつければいい。

 

自由があるので、ここからじゃなきゃ方向性が出せない、というわけではない。

 

エゴを薄くする(考え方を変える)ことで、全体性を損なわないエゴであれば、エゴは強くても問題ない。

 

それは宮本武蔵の章で書かれていた事に該当するはず。

 

完璧だと変化は起きない。

 

不完全だから変化する。

 

エゴは全体性の中に不完全を作り出しており、不完全故に方向性が生まれる。

 

エゴがあるから変化が生まれる。

 

エゴがあるから方向性が生まれる。

 

エゴの強さは方向性の強さでもあり、ありのままという基点が定まった時、出された方向性の推進力はエゴの強さが担うことになる。

 

全体性を損なわない強いエゴは、全体性を大きくかき混ぜながら、宇宙の大きな方向性の推進力ともなりうるもの。

 

だから完全覚醒をしても、エゴは無くならない。

 

全体性の働きを邪魔しなくなるから、無いように感じる。

 

エゴを否定してその存在を無いものとするのではなく、エゴをうまく使って全体性の成長につなげていくことが、これからの一つの方向性。

 

エゴを薄くする、の「薄く」や「無くす」は、全体性への影響の話。

 

エゴは無くならない。

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    零一 (火曜日, 07 6月 2016 01:01)

    私自身がエゴに振り回されて生き辛い人生を選択してきた部分が多かった、「楽して得をしたい」に捕われていた人生だったという思いがあるので、ついエゴを否定してしまう癖からなかなか抜け出せていません。
    でも、そのエゴを自由にさせていたのはやはり私自身なのですよね。

    だいさんは以前から否定について書かれていた中で、陰始を「否定の権化」と表現されたことがあったかと思います。
    否定を続ける究極の行きつく先が「滅びたい」に繋がるのであれば、日常の様々な場面での何気ない否定であっても、既に陰始の思うつぼに嵌っているのかもと思いました。

    以前一定の段階以上の方々のエゴは「個性」という言い方をされると教えていただきましたが、全体性を損なわないエゴになった時に個性という言い方に変える事ができるのでしょうか?
    仏陀や五井先生をはじめ、覚者の方々もそれぞれの個性を持って様々な働きをされていると理解していいのでしょうか?

    改めてエゴについてはじっくり考えていきたいと思います。
    ありがとうございます。

  • #2

    だい (火曜日, 07 6月 2016 10:56)

    零一さん

    陰始についてはちょっと特別扱いしてわかりづらくなっている面もあると思いますが、おっしゃるように自分の優位性を保つために他者を否定するような考え方は、陰始度だと思っています。

    また、新刊の聖徳太子の章では「ゆらぎ」とういう言葉が使われていますが、これはエゴの不完全さを指すのではないかとお話してくださった方がいます。

    卑弥呼の章では、おいしくするために残す、とも書かれていました。

    宇宙全史では、陰始を通してエゴの事をいろいろ書いてくださっていますね。

    「個性」というお話は、話した自分がすっかり忘れていました(笑)

    書かれている通りで大丈夫ですよ。

    よく読んでくださってありがとうございます。

    準備も整いつつあるようですし、いらしてくださった時にいろいろまとめてお話できそうなので、楽しみにしています。