「エゴの扱うエネルギーは意欲」と考えてみる。
気分がいい、になれば意欲がわく。
意欲がわく、ということは、モチベーション、動機、根拠がある。
それが自身の行動やその結果にあるか、他者のもたらすなにかにあるか、ということ。
他者がもたらすもの、ということは、自分が結果のためになにかをする必要はない。
だから楽をしている、といえる。
他者からの影響という言い方であれば、良い影響も悪い影響もある。
(※便宜上、良い悪いという言い方をした方がわかりやすいと思い使用していますので、あまり厳密なものではありません。)
そこでその良い悪いの基準を考えてみると、全体性の働きを促すか・損なうか、で考えられる。
例えとして平面図で考えてみると、エゴで囲われた領域は不完全であり、その中だけでは不足や機能不全などがあり、完全ではない。
不完全だから、方向性を出すことで変化しうる。
常に変化し続けることで、不完全さはより良い状態への方向性をだし続ける。
進化成長をし続ける。
逆ももちろんある。
だから、局所で変化を止める、濁らす、偏らせる、などは全体性を損なうことになるので、ある面、悪い影響といえる。
仮に他者からの良い影響を受けた時、要はきちんとお礼を言う、なにか行動で返す、相手本人でなくても人のためになることをして良い影響を貯めこまないで全体性の中で流していく、ということをすればいい。
それを偉そうにして、やってもらって当たり前、もっとやれ、なんで感謝しなきゃいけないんだ、などとすると、全体性には悪い影響となり、循環させないため、一方的な都合でエネルギーを支配することになる。
これで「奪う」という表現はしないが、そういう方向性にはもっと荒っぽいやり方もあるよう。
平等、対等と思っていたら、お互い様とも言えるから様々な循環が発生するが、損得勘定や上下関係に隷属関係でものを考えていると、良い循環がなかなかうまれない。
大事なのは自由に生きられること。
思い通りに生きられること。
自分のありのままを認め、ありのままの自分の素直な思いに基づいて行動し、行動した結果が思い通りになっていること。
自由に生きられていること。
その思いや行動を、ダメだ、私の言うことを聞け、と否定したり嫌がるのに強制すると、自由ではなく不自由になる。
自分の思いを疎かにして、周りに合わせてばかりいたり、人の指示に従って考えてない生き方も、同じく不自由な生き方。
思い通りではなくなる。
自由に生きられたら、気分がいい。
不自由だと気分がわるい。
自由に生きられたら、意欲がわく。
自分の中で循環させていける。
誰かに意欲の根拠を求めなくて良い。
根拠を求めるとは、責任の所在を求める、ともいえる。
誰かに意欲の根拠を求めるとは、自分の生きる権利の責任転嫁をしようとしている場合もある。
主体性を損なわないことも大事なこと。
写真はどちらも息子作「父ちゃん」です。
見本無しと有りでこの違いです。