伝 105

神を特別と思うてはならんぞ

 

神は積み重ねた先にあるものぞ

 

その積み重ねが御魂磨きじゃ

 

御魂磨く方向を間違えるでないぞ

 

正しき方向をむいていることが大事じゃぞ

 

我を見失うてはなにも積みあがらんぞ

 

よく考えるのじゃぞ

 

 

 

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コメント: 17
  • #1

    だい (水曜日, 06 7月 2016 19:54)

    いつもとは違うトーンでお届けいたしました。

  • #2

    コロ助 (水曜日, 06 7月 2016 20:18)

    久しぶりの伝、ありがとうございます。
    私にとってタイムリーな内容で、勉強になりました。

  • #3

    だい (水曜日, 06 7月 2016 22:05)

    更新の少ない伝ですが、書く時は最近必ずコロ助さんのことが浮かびます(笑)

    いつもコメントをありがとうございます。

    特別視は神と自分は違う、と越えられない一線をひくことです。

    自分の可能性を狭めることにもなるので、少し考えていただくといいと思います。

  • #4

    (水曜日, 06 7月 2016 22:08)

    だいさん


    卓越した人物を目の当たりにして、ため息をつくことはないのですよ。
    「自分はこのような立派な人物にはなれない」と、嘆くこともないのです。
    その人物も、先達の前で最初はあなたと同じことを思っていました。

    多くの人々にとって、毎日は当たり前のように過ぎていきます。
    何の変哲もなく、退屈で変わり映えのしない日々かも知れません。
    しかし、先を歩む者は、その日常茶飯事をおろそかにはしないのです。

    倦まず弛まず、飽きることなく、日々において着実な一手を打ってきたのです。
    特別なことではなく、当たり前のことを当たり前にこなしてきたのです。
    考え、想い、行動に移し、自分の運命を創ってきたのです。

    ご自分の行き先を決めましょう。
    それはまず方向性を示すことです。
    自由であるか、調和しているか、身勝手ではないか、否定はないか。
    よく点検しましょう。

    その方向が「他人からみてどう思われるか」では、まるで他人の人生を生きているみたいです。
    「その人の為に」でも、自分の人生を生きているとは言い難いかも知れません。
    自分を打ち出し、意欲や生き甲斐を持って生きていければ、砂上の楼閣を築くことはありません。

    真剣に考えることは真剣に生きるということです。
    できるだけ意識的に考えてみましょう。
    いつか、その卓越した人物の背中は近づいてくるかも知れません。


    もし、知り合いに解説する事があったら、どのように説明したらいいかと考えました。

    完全には理解できませんが、今はこのような解釈です。

    ご指導よろしくお願いいたします。


    失礼いたします。





  • #5

    だい (水曜日, 06 7月 2016 22:55)

    修さん

    内容としてはいいと思います。
    方向性ということも理解がすすんでいるようで、読んでいてうれしかったですよ。

    『みんな運命を創造する力をもっています。まずは自分の思いに従って方向性を決めること。そして、結果が出るまであきらめなければ、誰でも同じような結果がだせます。特別視して可能性を放棄するのではなく、どうすればできるのかを考えて、間違えたときには軌道修正すればいいんですよ。』

    私なりに整理するとこうなります。

    私が感じたなりにお伝えすることがあるとすれば、良くも悪くも人の目を意識してちょっと大きく表現する癖のようなものが修さんには見受けられます。

    私の今の課題でもありますが、限られた時間で成長という結果を求めるとき、相手にすっきり伝わるかどうかは非常に重要で、努力はしたけど結果は出ませんでした、ではやっていないことに等しいことがあります。

    実生活で知識を活かそうとおもうと、長い文章は役に立ちません。
    シンプルな一言に集約できれば、実用度が高くなると思います。
    例えや表現を上手に活用した方がいい時もありますが、時間が少なくなっている中で、平常心を保てないような状態でも使える知識をどこまで提供できるか、そういう基準で考えていただくと修さんにとっても意味のある頭の使い方になると思うのですが、いかがでしょうか。

    私もできていないことですので、書いていて妙な気分ではあります。

    ここで書き連ねているのは私の備忘録としての意味もあり、つながりを知っていただくことで全体性の理解を少しでも深めていただきたいという目的があります。

    ですから今後はなるべくシンプルにまとめ、その意味などは過去のブログから考えてもらえたらいいと思っています。

    全体性を理解することで覚醒への道筋に入っていく、そうしたことをここではある程度まで書いてありますので、真剣に読み込んでいただくことでそれなりに意識レベルを上げることはできますから、繰り返しの中で理解を深めるようにして下さい。

    余談ですが、今回わざと言いまわしを変えて表現されたようです。
    特別と思いこませて笑っているのではないでしょうか。
    ちょっと雑な言葉遣いも混ぜることで遊んでいますね。
    全然特別じゃないんだよ、ということを今回の表現を通して感じ取ってもらえるといいですね。

  • #6

    だい (水曜日, 06 7月 2016 22:59)

    余談の補足です。

    分かりづらい書き方をしてしまいましたが、「伝」の言い回しを変えた、という
    意味です。

  • #7

    アキラ (木曜日, 07 7月 2016 00:18)

    五井先生の方を向いていると
    私はなんだか安らぎます

    この「向く」という行為も奥深くて
    怒りを向いたり葛藤を向いたり
    はたまた言葉にできない真っ暗な感情と向き合ったり

    でも一番落ち着くのは 断然!世界平和の祈りですね^-^

  • #8

    papas (木曜日, 07 7月 2016 01:33)

    平常心を失って祈りを唱えている際に
    一度だけ五井先生の、
    祈りを唱えるその先、世界平和を唱えるものとしての清廉潔白さ、良心に恥じない生き方を心掛ける。ということを思い出し、消えていく姿、助けてという祈りから世界の平和を祈るという方向に変えることが出来たことがあります。

    最近は気づかないうちに目を背けていた過去の後悔、トラウマから再度向き合い、その事柄に対して抑圧されていた負の思いに気付いて抑圧していた思いを認めることによって抑圧から解放しています。

    事柄(後悔、トラウマ)に対して意味、学べることを見出そうとしても解放してからでないと自分の本当の思いに向き合っていないので表面上で見出だせたとしても心の底
    では納得出来ていない自分がいるんだなと思いました。

  • #9

    papas (木曜日, 07 7月 2016 02:06)

    それとどうしても未だに無意識に他人がどう思っているか陰口を気にしてしまう自分がいたのですが、

    本日、そんなことを思っていても相手ではないから他人の思いを変えることは出来ないし、他人がそう思ってしまうことに罪はなく、そう思ってしまったのだから仕方がないことなんだなということに気が付き、

    だから気にしても意味がないし相手の思いは相手のものなんだなと思え、大体気にしてしまう自分を外すことが出来ました。
    気を使うことは優しさではなく無意識に相手のありのままを認められていなかったんですね

  • #10

    wombat (木曜日, 07 7月 2016 11:43)

    日月神示風ですね^^

    連綿と連なる中の断面が【今】というだけで、
    そこから先にもつながっているのだから、
    その時点での特徴を見て、特別視してもしょうがないんだな、と感じました。

    肩の力のいい具合に抜けまして、
    とてもありがたい伝でございました^^

  • #11

    (木曜日, 07 7月 2016 18:35)

    だいさん

    今回もご指導の程、ありがとうございます。

    人の目を気にし、良く見せたい、偉く見せたいなどの癖がでるのは、まさにその通りです。

    認識はしているのですが、長らく根付いている為、本腰を入れた修正が必要です。

    また、長めな文章であり、言い回しにも余計な言葉が見受けられます。

    解釈というより、注釈みたいな感じですね。

    より理解を進め、「要点」や、「何を伝えたいのか」、を整理してみます。

    常時活用できるサイズにまで、絞り込んでみます。


    お疲れにもかかわらず、ありがとうございました。

  • #12

    だい (木曜日, 07 7月 2016 20:54)

    アキラさん

    安らぎを感じる対象を自覚し、落ち着くものがわかるのであれば、大きな方向性はつかめているようですね。

    どこを向くのか、それこそが方向性であり、それをだせるのはエゴだからでもあります。
    なにが一番かは、人や時期によっても異なります。
    感受性に働きかける「かすかな」なにかを通して、私たちは上からのフォローに従って軌道修正を繰り返していきます。
    なぜ「かすか」なのかといえば、より大きな存在から伝わってくるものを、より小さな私たちではすべてを受け止めきれず、より大きなものの一部のみを感じ取っているから「かすか」に感じるのです。
    そうやって全体性を感じとっていきます。

    余談ですが、いまの私の段階では妻が穏やかであれば一番落ち着くかもしれません(笑)
    そして、「ありがとうございます」と、お祈りします(^^♪


  • #13

    だい (木曜日, 07 7月 2016 21:26)

    papasさん

    「祈りを唱えるその先、世界平和を唱えるものとしての清廉潔白さ、良心に恥じない生き方を心掛ける。」
    過去にBBSのご回答にあった内容ですよね。
    改めて読んでみると、「祈りを続けることで、不幸を願わないようになっていき、陰始度0を心がける」と置き換えて読んでいました。

    具体的な取り組みの内容が分かりやすかったです。
    『抑圧していた思いを認めることによって抑圧から解放しています。』
    私なりの解釈ですが、認めるとは、まず無意識にやっていたことに気づいて、意識すること。
    抑圧、というのは見ないようにしていた、ということであり、無いものにしようとしていたわけです。
    私のいうところの「否定」です。
    消せないものを無理やり消そうとしていたわけですから、葛藤が生じてカルマが増えます。
    ですから、消そうとすることをやめて、そういう想いがあるんだと認めます。
    しかし、ここで「解放」というと「放置」することでやめてしまう方もいるかもしれません。
    それはそれでいいのですが、そこからの方向性がはっきりでていないので、改善が滞ることも考えられます。
    ここで「一度に考えられることは一つだけ」という理屈を使います。
    「全体性を損なわない考え方」を積極的に考えます。
    全体性を意識して真剣に考えれば何かしら浮かぶものですが、具体的なものが浮かばなければ、全体性の働きを損なわない考え方を文言にしたお祈りをするといいですね。

    『事柄(後悔、トラウマ)に対して意味、学べることを見出そうとしても解放してからでないと自分の本当の思いに向き合っていないので…』
    問題を問題と認識するから意味や答えや学びを得られ、それらによって納得するから執着が無くなり解放されます。
    納得できていないから解放もできていません。
    表面、ということではなく、エゴが向き合いたくないから「解決したことにしよう」「解放できたということでいいんじゃない?」とやっているだけです。
    エゴに丸め込まれているこういうケースに気づけるようになれるかどうか、今後の課題ですね。

    追加の文章はいい気づきですよね。
    もう少し時間がたつと、より整理されてきますが、相手の自由を認められるようになってきた、ということです。

    読み返してもらえばわかると思いますが、私のコメントは目新しいことは何一つ書いてありません。
    過去のブログに書いたものばかりです。
    質問や気づきが格段に良くなってきているので、今後はもっと理解が深まるはずです。
    引き続きブログを読み返すようにして下さい。

    それでもトータルの印象は、papasさん、いい感じ♪です。

  • #14

    だい (木曜日, 07 7月 2016 21:28)

    wombatさん

    さすが鋭いですね!(笑)

  • #15

    だい (木曜日, 07 7月 2016 21:30)

    修さん

    具体的な取り組みは、よりよい結果を生むはずです。
    がんばってください!

    修さんもいい感じですね(^^)

  • #16

    papas (土曜日, 23 7月 2016 02:48)

    こんにちは。
    ここ最近、良心的な欲求(と勘違いしている過去の因縁による気付きにくいエゴの欲求の結び付き)がここ最近にあったり、上手くいかないことによるエゴが強く現れ、世界が違って見えたりしたのですが、
    総じて「我を見失うてはなにも積みあがらない」ということでした。

    ここで気付いたことは執着を生むほどの欲求、自分を許せないような後悔というものは消えていく姿として流すことはとても難しく、実際はそのような欲求を持つ自分は認められども、そのまま流さないといけないことを知っていながらその欲求に対しての答えをどうしても(エゴが、また繰り返さないようにするには、今流しても同じことが起こったらまた同じことになるのではないか、根本的な解決にならないのではないか、と考えてしまい、)脳内で何度も同じシチュエーションをやり直し答えを求めてしまいます。
    しかしこれは過去の業想念やエゴの解消を捉えてしまうことであり、それを自覚しても(私は良心的な欲求も含まれていると勘違いしていたこともあり)答えを求めようとしてしまいます。なので流すことに時間がかかってしまったのですが、流せたことで答えを求めようとする前に必要なものが足りていないことに気付けました。それが平常心でもあり、「我を見失うてはなにも積みあがらんぞ」ということでした。
    つまり、「繰り返さないようにするには」といった理由で流す前に答えを求める行為は答えが見つからない意味のない行為で、流した後で「軽く」真面目に考えると答え(良い方向性)を導き出せるのだなと思いました。

    それから分かることは、軽いとは自分が想いに縛られ、重くない状態であり、軽いと良い方向性が導き出せることから軽い状態とは全体性と繋がりやすくすること=エゴが薄まること。重い状態とは我を見失っている、エゴが強くなること、流すとは過去を忘却するということではなく重い状態である私の重荷(想い)を降ろす(流す)ことであるということに今更ながら気付き、思いました。
    そうなると消えていく姿(流す)=想いを手放す=想いに捉われない=エゴを薄める=全体性が入ってくる=神が強くなる
    になるのではないかと思いました

  • #17

    だい (日曜日, 24 7月 2016 00:53)

    papasさん

    私が気づいていないようなことまで書かれていてびっくりしました!
    すごい!

    消えていく姿をエゴを薄めるにまで結びつけられたのは大きな理解ですね。
    これまでの想いが消えていく姿なんですよね。

    軽く考える、のところはもう少し理解を深められるかもしれませんので、次いらっしゃるまでに一度お考え下さい。

    ありがとうございます。