「都合」について

 

(※以前のブログ「2016/5/1 No.2827」の内容について、補足で書いています。)

 

 

 

自分の都合だけでなにかをすることは、「利用する」ということ。

 

 

 

「自分が困った時だけ」、「全力をださないで楽をしたい時だけ」、という都合がある。

 

「楽をして得をしたい」、「自分は変わらなくても、取り組まなくても、そのことが何とかしてくれる」、「自分は得をするに値する特別な存在である」、などが下地にある。

 

「やったことが返ってくる」、「やった分だけ変わる」、という発想とは違っている。

 

 「宝くじ(高額賞金)が当たる気がする・・・」と大したこともしていないのに毎回奇跡を信じて買う行為のようなもの。

(以前は、たまにやってましたが、もちろん当たらなかったです・・・)

 

 

 

 

全体性を損なうやり方をしすぎてしまえば、どこかで修正がはいる。

 

ウソの分だけ歪みができていたのを、全体の流れを損なわない状態にする働きがでてくる。

 

それが、恒常性の維持。

 

 

 

 

自分だけの都合で利用できるということは、その利用する対象を自分よりも下に見ていることになる。

 

自分のほうが上だよ、支配できる関係だよ、と考えている。

 

弱肉強食とは、力あるものの都合が優先される、ということ。

 

だから力を集め、強くなり、自分の思うように生きられるよう取り組むが、そこで「自分だけの都合で」、とすると方向性がおかしくなる。

 

 

利用する者より利用されるものが下位とすれば、利用されるものは利用する者より力が無い、という理屈が考えられる。

 

 

そういう思いでやったことは、そういう結果(※1)しかでない。

 

それでも、思い通りに生きられていることにもなる。

 

(※1 どれだけお祈りの効果があっても、その効果は制限されたものになってしまう。)

 

 

しかし、上位であっても自由を認め、そういう都合での使われ方をゆるすことにより、主体性を損なわないあり方として、五井先生があるように思える。

 

 

 

お互いの自由を認める様子が、お祈りには現れている。

 

 

 

以上、不完全ですが補足と整理を兼ねて書いてみました。

 

参考になればうれしいです。