メモ 情・同情・非情

とは、良くも悪くもエゴの価値観で自分が考え行動すること。

 

全体性の理屈や道理よりも、エゴの価値観を優先している状態。

 

 

 

同情とは、やはりエゴの価値観を優先しつつ、相手の価値観の方が歪みがつよい場合に自分の価値観を疎かにし、相手のエゴの価値観の方を「いいね」といって優先している状態。




      

 

 

非情とは、こうした自分や他人の情よりも、より歪みの少ない全体性の道理や理屈を優先すること。

 

いいものはいい、ダメなものはダメ、正しいものは正しい、違うものは違う、そう判断でき行動に移せること。

 

 

余談ですが、特別視について考えていたところ、神社で神様をあてにして拝みにいくというのは、神様を祀るというよりは特別視することによってそこに封じ込めている、そんな感じがしました。

 

全国各地に祀られている?神様は、バラバラにされて封印されているかのようにみえてきます。

 

御嶽山が噴火したことがありましたが、あの山はいわゆる霊山として山岳信仰の対象になっており、その山頂に祀られていた(封印されていた)神様があの時解放されたのかも、なんてことを考えたりしています。

 

 

写真は、もう亡くなられていますが、父の書の先生が書かれた字です。

    (内容を一部修正しました)

 

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コメント: 4
  • #1

    バンコクマリ (日曜日, 25 9月 2016 01:58)

    同情するのでなく非情になること。
    宇宙全史で学んでから。ずっと常に心がけていました。
    うまくできていると思っていました。
    おとといロンドンで、夜の7時、寒空の中、
    仕事帰りの人が慌ただしく行き来する中、1人の少年((14歳から18歳位)が、膝を抱えて、頭を膝に突っ伏して、歩道の真ん中に、上着を畳んで敷いて座っていました。
    物乞いには見えず、普通のきちんとした身なりの少年でした。
    私は目的地に急ぎ足で向かう途中に、一瞬その姿が目に入っただけでしたが、その完全に人とのコミュニュケーションを拒絶しながらも、大勢の人が通る人ごみに座っている姿を見て、大きく動揺して、胸が張り裂けそうになりました。
    家にいられないだろう何かの事情があって、あそこにいる少年。
    おそらく何かの助けを求めながらも、ああすることしかできない少年。

    食事をしてホテルに帰った後、あの歩道に戻り、少年に声をかけようかと思った位です。

    それ以来今も、あの少年の境遇を思うと胸が潰れそうです。

    これは完全に「同情」です。
    エゴから来るものなんですね。

    あの少年に無条件の愛を送り、彼の魂の天命のまっとうを応援することしかできませんが、胸が痛むのは、私自身の価値観や尺度で、彼を「かわいそう」と思ってしまうからです。

    もっと全体性を捉えれば、これほど感情的にならずに済むはずなんです。
    まだまだ修行が足りないと思います。





  • #2

    だい (火曜日, 27 9月 2016 01:48)

    バンコクマリさん

    ご自身の体験を交えてのコメントをいただき、ありがとうございます。

    こうでなきゃいけない、というものはないので、その時できるベストな考えと行動がより思うような結果となればいいですね。
    今回の体験はできることをある程度なされたのではないでしょうか。

    方向性として非情さを求めるのはいいのですが、そういったことを相手が求めていない場合には厳しすぎることもあるため、今回のように悩み考えながら自分なりのものを見つけていくといいと思います。
    エゴにも良いエゴと悪いエゴがあるように、歪みの少ない情を上手に使うことは生きていくうえで大切なことです。
    互いの幸せを願う、相手の生きていく力を信じる、そうしたことが正しく行なえることが私たちの成長に繋がるのであれば、使えるものは上手に使って日々真剣に生きていけたらいいのではないでしょうか。

    今回のようなケースの場合、かわいそうという気持ちになることはいいと思いますが、あとで悩んでしまった理由として、ご本人の気持ちを確認しなかったことが考えられます。
    相手の状態は見た目でわかるような気はしますが、実際は違うかもしれません。
    相手の話をまずは聞き、それを踏まえてご自身の判断を決めていけば、またその後のバンコクマリさんの気持ちはすっきりしたものになったかもしれません。

    相手の思いを踏まえずにこちらがどれだけ良いことを考えたにせよ、求めていないものを押し付けたのであれば身もふたもないので、幸せを願うなり行動を考えた時、相手の意思確認をすることは大事になります。
    また、相手が楽をしたくて人にすがっているわけでもありませんし、(そうしてはいませんが)それに応えたわけではありませんので、同情とは少し違うのではないでしょうか。
    あまり責めなくてもいいと思いますよ。

    思うように生きられるために、自分も相手も互いに意思の疎通が大事になるので、不完全ながらになるべく正しい言葉を使う意味もわかってくると思います。

    「なぜそうしているのか」(状態)
    「どうしたいのか」(方向性)

    ここから考えることを意識してみてください。
    こうしたことは他のみなさんの日々の取り組みにも役立つはずです。

    このところブログの整理をしていますが、考えるきっかけをいただきました。
    改めて、ありがとうございます。

  • #3

    バンコクマリ (水曜日, 28 9月 2016 12:26)

    大さん

    ご丁寧にご返信ありがとうございました。


    「今回の体験はできることをある程度やった」
    「非情さを相手が求めていない場合には(非情さは相手にとって)厳しすぎることもある」
    「悩み考えながら自分なりのものを見つけていく」
    と書いてくださっていて
    心が軽くなりました。

    おっしゃる通り、後で悩んでしまったのは、あのまま通り過ぎてしまった自分の行動に迷いを持ったからでしょう。
    
愛= 自分のエゴではなく、歪みの少ない情に基づいて、
    また
    「明日死ぬとしたら、自分は今
    どう行動するか?」という覚悟で
    
その時できるベストな考えと行動を実行する

    相手に向かうと決断した時は
「なぜそうしているのか」(状態)
「どうしたいのか」(方向性)
相手の意思確認をして行動する。

    日常のひとつひとつの場面を以上のように過ごします。

    良い勉強になりました。
    ありがとうございました。

  • #4

    だい (水曜日, 28 9月 2016 20:54)

    バンコクマリさん

    こちらこそ勉強になりました。
    他のみなさんからのコメントも考えるきっかけをいただいて勉強になります。
    ありがとうございます。