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お祈りなどについて

最近もありましたが、いらしていただいてお話を聞いてもらうことで、修正をかけた方がいました。

 

 

 

具体的な数や個々の内容はわかりませんが、ここを見ている方たちの大半に対し漠然と最近私が感じるのは、取り組み方に問題があるようだ、ということです。

 

 

 

そう感じた理由として、注意喚起を促されているように感じるできごともあり、以前から少しずつ書いてきたことではありますが修正をかけられる方もいるかもしれませんので、お祈りなどの取り組みについて少しまとめておきます。

 

 

 

 

 

コメント欄などでも最近書いていますが、まずお祈りが依存になっていないか、よく考えてみてください。

 

 

 

これはお祈りに限った話ではありませんね。

 

 

 

 

 

特別な存在を見つけ、それにすがることで安心してしまい、それをやっていれば安心と思いこんで、やるべきことをやらなくなってしまうことがあります。

 

 

 

 

 

先日、

 

 

 

『「お祈りしかありません」という言葉の弊害があるよ』

 

 

 

と、上位意識からインスピレーションを受けました。

 

 

 

 

 

それはともすると独善にはまりこみ、最終的には、

 

 

 

「自分だけは特別」

 

 

 

「自分は他の人とは同じに扱われてはいけない」

 

 

 

「自分はこの世界で一番」

 

 

 

となってしまう、とのことでした。

 

 

 

 

 

ブログ「日々の取り組みと祈りについて」「続き」、などで書いた内容と重なるところもありますが、ここは過去に大きな影響があったことのようですので、繰り返さないためにも、再度書いておこうと思います。

 

 

 

 

 

自分の判断に基づき行動し、その結果は行動した人に返ってきます。

 

 

 

まちがった解釈をしてまちがったことをすれば、その結果は自分にかえってきます。

 

 

 

ですから、ブログ「続き」でも書いたように、受け取り手の判断の仕方が大事になります。

 

 

 

人のせいにはできません。

 

 

 

 

 

日々の取り組みで、方向性をださず、否定的な考えを減らしエゴを薄くすることができていないと、特別なことを追い求めてしまいます。

 

 

 

 

 

瞑想を例に考えてみてください。

 

 

 

「日常生活と切り離した瞑想にこそ価値がある」と考えて、瞑想を特別扱いしていると、日常生活を否定的にとらえるようになるかもしれません。

 

 

 

長く深い瞑想ができることにこそ価値がある、という考え方もあると思います。

 

 

 

「日常生活を問題なく生きられるようになっていくことが、意識レベルがあがること」

 

 

 

と私は考えていますが、そうした方向性を出している人にとって、特別扱いする瞑想は否定が残っているため、どこかで行き詰ります。

 

 

 

上位意識との繋がりをつくり、日常生活を問題なく生きられるようになっていく、という考え方であれば、否定的な考えにはなりません。

 

 

 

 

 

また、特別なことをやって特別な体験をした時に、考え方が整理されていなかったり、ものごとの理解が足りていなかったり、正しい理屈がわからない段階だったり、エゴが薄くなっていないと、自分に対する特別視がつよまることもあります。

 

 

 

 

 

ようは、いまの私たちみたいにレベルが低いと、おかしなことに引っかかるよ、ということです。

 

 

 

 

 

特別なことは、当初は「他の人がやっていないこと」なのですが、「他の人ができないこと」にすり替わり、「自分だけが特別な存在」と変わっていくと、「自分が一番正しい」「自分に指導できるのは特別な存在しかいない」と、どんどん深みにはまり込んでいくことになります。

 

 

 

 

 

覚醒しない限りは、エゴ主体でエネルギーが限られ、視野の狭い考え方のような、どんぐりの背比べにすぎません。

 

 

 

 

 

独善に陥ると、そうした上位意識の働きかけがわからなくなり、エゴにとって都合のいい内容だけを認めたり、勝手な解釈にすり替えたり、正しいことを払いのけるようなことまでしてしまうことがあります。

 

 

 

 

 

そして、益々誤った取り組みで誤った方向に邁進してしまい、誰の声にも耳を貸さない状態で、特別な体験に後押しされて歯止めが利かなくなれば、行き着くところまで行くようなこともあると思います。

 

 

 

だから、エゴを薄くすることは大事なのです。

 

 

 

 

 

また、そうした「特別」な人を目の当たりにすると、自信をもって取り組む様に魅せられてしまう人もいることでしょう。

 

 

 

自分で判断することを放棄し、「なに」ではなく「誰」を信じて鵜呑みにして、これしかないという強い思い込みから基本的な取り組みさえも疎かにする人たちは、魅了されて付き従っていくことになります。

 

 

 

 

 

この辺りは、「自分がない人がどうなるか」ということで、宇宙全史の別巻「20年後~」の中にも書かれていました。

 

 

 

 

 

「上位意識を使わない限り正解は見えてこない。」

 

 

 

私たちよりもはるかに正しくものごとがわかる上位意識の導きや指導がないと、エゴの私たちには正しいことがなんなのかわかりません。

 

 

 

これがお祈りの目的でもありますが、取り組み方によって結果も変わることをいちどしっかり考えていただきたいのです。

 

 

 

 

 

やったことの結果しかでません。

 

 

 

「この人」や「お祈り」に、(やることやらないで)すがっていればまちがいないだろう、安心だろう、であぐらをかいてしまっては、エゴもカルマもよくなってはいきません。

 

 

 

やるべきことをやらなければ、正しい方向性には進まないですし、基本的な取り組みをやれば、それだけ前に進みます。

 

 

 

 

 

特別な体験は、それまでの取り組みの結果として、取り組みの正しさを証明するご褒美のような場合もあります。

 

 

 

しかし、私たちはよく考えずにいると、それまでの取り組みで目指していた方向性ではなく、無意識にそのご褒美に照準を合わせてしまい、これまでの取り組みとは違うことをし始めてしまいます。

 

 

 

それでは思うような結果が出るはずもありません。

 

 

 

 

 

そのあたりのことはすでに以前のブログでも書いたとおりです。

 

 

 

「そうした鵜呑みや考えないで盲信することで、かつて予定されていたことが大幅に延期された」、そういうことがあったのかもしれない、そう感じています。

 

 

 

 

 

私もまだできていませんが、成長すれば、あてにしたり依存しなくても、自立して生きていけるはずです。

 

 

 

自らを成長させることを忘れないでください。

 

 

 

まとまりきらない内容ですが、ここまでで今回は掲載しておきます。

 

 

 

 

 

そういえば、今日は夏至なんですね。

 

 

 

すっかり忘れていました。

 

 

 

これまでの取り組みの結果がどうでるか、それをもとに今どうするのか、チェックされるといいと思います。

 

 

 

 

 

(※昨夜掲載したものは文章が粗かったので、内容をところどころ書き直して再掲載しておきます。)