改めて、同情と非情について

「その~」はまた書きますが、今回は同情と非情についてです。

 

 

 

以前書いたこともありますが、これからますます大事なことになると思いますので、改めて触れておこうと思います。

 

 

 

 

 

情とは

 

・親しくなりたい気持ち

 

              

 

同情とは

 

・歪みの多いものを優先すること

 

・エゴの価値観や判断を優先すること

 

・下位意識の判断を優先すること

 

・「誰を」を信じること

 

 

 

非情とは

 

・歪みの少ないものを優先すること

 

・正しい理屈を優先すること

 

・上位意識の判断を優先すること

 

・「何を」を信じること

 

 

 

このように考えていただくと、多少整理がつくのではないかと思います。

 

 

 

 

 

誰かを信じたい、大事にしたい、という情の働きがあります。

 

 

 

なにかあったとき、無条件で誰かを擁護しようとすれば、情が働いていると感じると思います。

 

 

 

普段の生活で情が働くことはよくありますが、カルマ解消につながるような問題解決や、意識レベルを上げるためにエゴを薄くすることなどでは、正しい理屈でものを考えなくては正しい解決や改善につながっていきません。

 

 

 

エゴのやることは、どこか間違えたり足りなかったりするものですので、順序としてエゴの判断よりも正しい理屈を優先していかないと、結果的に歪みが生じる可能性が非常に高いのです。

 

 

 

ですから、自分より物がわかる人に相談する、ということをします。

 

 

 

エゴを優先した場合、うまくいかないし、仮にその時うまくいっても、歪みを含んだ解決ではあとでぶり返したり、長続きせずに違う形でやり直すことになります。

 

 

 

 

 

自分の幸せのために真剣に生きるのであれば、成長することによって問題を減らし、少しでも気分よく生きられるように取り組むことが大事です。

 

 

 

おかしな考え方や思いなどを良くしていくには、正しい理屈を少しでも知り、理解し、実践することです。

 

 

 

その時にできる精いっぱいをしようとしても、エゴを優先しているうちは、歪みを本気でとる気がない、ということになります。

 

 

 

ベストを尽くしていることにもなりません。

 

 

 

つまり、真剣に生きているとはいえません。

 

 

 

 

 

信頼できる人であっても、どこか間違えることがあるので、真剣に生きようと思ったら、正しい理屈を見ていかなくてはいけないのです。

 

 

 

エゴは完璧ではありませんが、正しいことやいいことがまったくないわけではないので、大なり小なり考え方や行動には含まれています。

 

 

 

ですから、目を向けるべきはそうした断片的な真実や大事なことになります。

 

 

 

「誰」を優先しすぎて全部まるまる信じ込んでしまうと、あちこちに紛れ込んでい

る歪んだものまで信じてしまい、まちがった方向に進んでしまいます。

 

 

 

頭をつかってよく考え、信じる「誰」の発言や書いたもののどこに、自分を正しく成長させてくれる「何」があるのか、それを見つけることが、私たちの学びの取り組み方です。

 

 

 

 

 

「誰」を信じていても、その相手のエゴが働く限りは、気が付かないうちに道を踏み外しているかもしれません。

 

 

 

この世界が常に動いているということは、完璧ではないということであり、可能性を常に秘めている世界ということになります。

 

 

 

最終ゴールに到達するまでは、その一歩手前であったとしても、転落する可能性が常にあるのです。

 

 

 

 

 

覚醒したとしてもエゴが残るので、エゴの整理というのはできる限りしっかりやっておかなくてはいけません。

 

 

 

頑張った分だけ、チャクラが開いた時の伸び率は高くなります。

 

 

 

一方、歪みのある思い込みが残っていると、エゴよりは判断ミスが少ないかもしれませんが、エネルギーがある分影響力も高くなるため、その思い込みのせいで気づかずに間違ったことをしてしまった場合、因果応報で返ってくる負荷は大きなものになります。

 

 

 

エゴを磨いて意識レベルを上げる際のコツは、負荷をかけられてもひねくれない、あきらめない、ということ。

 

 

 

真剣に考えて生きることで、歪みは減らしていくことが出来ます。

 

 

 

真剣に生きるとは、先ほども書いた正しい理屈を優先していく、ということです。

 

 

  

 

ただ、馬鹿正直な私みたいに融通が利かせづらいタイプですと、なんでもかんでもそうなってしまい、理屈っぽいめんどくさい人、ということで周りとうまくいかなくなります。

 

 

 

以前は妻から、「屁理屈はいいから早くやれ」というプレッシャーを何度もかけられていました。

 

 

 

なにを優先するかは、その時々で考えて使い分けることも大事です。

 

 

 

身近な人のエゴが納得していた方がうまくいく場合がある、ということもありますので、お互いの自由を奪わないよう、そして歪めないように、日常生活で考えて使い分けていくといいと思います。

 

 

 

自由を認める、ということの難しさは、まだいまだにできていないこともありますので、私も実践しながら勉強しています。

 

 

 

そういう人間を無条件に信じるような馬鹿なことをしてもらいたくありませんので、今回は改めて書いておきました。

 

 

 

私や誰かを信じるのであれば、正しい理屈を最優先にしたうえでにして下さい。

 

 

 

ここ3カ月ほどの変化の時期のお話をするにあたり、その根拠となる流れをお伝えする意味で「その~」は書いています。

 

 

 

確認のとれない特別なお話が盛り込まれていますが、やたらめったら鵜呑みにする必要はなく、よくわからなければ結果がでたときに納得すればいいことです。

 

 

 

ただ、見えない世界の全体像を、より正しく知ることができれば、上位意識の考え方も少しずつ理解できるようになり、考え方の修正もより正確にできるようになっていくはずです。

 

 

 

 

 

あまり考えずに生きていると、ニュースなどの情報で不安に感じさせるものを見たとき、それを考えていても解決するわけではないのに、そればかりついつい考えてしまいます。

 

 

 

そして、腹をたてたり、落ち込んだり、そうこうしているうち、大事な時間は大事なことに使われることなく、過ぎ去ってしまうのです。

 

 

 

「一度に一つ」ですので、真剣に生きることにつながるようなものでなければ、気持ちの切り替えを心がけて、やるべきことに集注していくことが大事なのです。

 

 

 

やるべきは、自分の意識レベルが上がるような、目の前の事です。

 

 

 

心がざわつく、かたくなになる、否定的な思いにとらわれる、そういったことを減らしていくことです。

 

 

 

 

 

目の前にいる家族、会社の同僚、親しい友人、よく顔を合わすご近所さんなど、日常生活でかかわる人たちや身に起こる様々な物事。

 

 

 

そういった関わりの中で生じる気持ちの揺れ動きをヒントに、自分の中の思い込みのへんなところを探し出し、誰が聞いても納得できる考え方などに変えていくことが、私たちが日々取り組むべきこと、と私が書いていることです。

 

 

 

 

 

同情が働くことが悪いことではありませんし、非情さを打ち出しすぎて自分が生きづらくなるのも問題です。

 

 

 

正論説いて嫌われる、自分はどうかと聞かれたらできていない、それで反省しないで自暴自棄になる、ではちょっとね、となりますよね。

 

 

 

上手に使い分けて、気分よく成長できるようになっていっていただけるといいと思います。

 

 

 

 

 

最後に、皆さんの今後の取り組みの目標についてですが、「覚醒」というものを明確に意識していく必要性を感じています。

 

 

 

現状のレベルではかなり無理がある、というケースもあるかもしれませんが、追い風が吹いているいまがんばることができれば、可能性はあるようです。

 

 

方向性として究極的には「実存を見る」ですが、意識レベルを上げる、よりよく生きる、だけでは取り組みの真剣さも曖昧な分薄くなりがちだと思いますので、明確な目標として持てる方は、そのようにしていただくといいと思います。